第17話 暗がりの中にあるもの

 仄かな甘い香りが鼻につく。自分の右肩には彼女の頭が乗っかっている。重い、とは思わなかった。いやなに、そう思うのは彼女に対して失礼だろう。


 すっかり日が落ちて、街灯がまともにない田舎町が暗闇に包まれている。流石に夏といえども、こんなに薄手で遅くまでいたら肌寒く思う。そろそろ彼女を家にまで送り届けるべきだろう。


「……唯野さん」


 そろそろ帰りましょう、と言おうと思った矢先だった。彼女はポツリと呟くように名前を呼んだ。依然として彼女は頭を肩に乗せたままだ。その声音は嬉しさが滲み出ているのがわかる。


「本当に、不思議な人です。貴方が相手だと、どんなことでも話してしまいそう。昨日あったばかりなのに、不思議ですよね」


「……まぁ、昔からそういう役回りみたいなものでしたから。案外、人の話を聞くのが上手いのかもしれませんね」


「聞き上手、とはまた別なような……そう、例えるなら会話上手でしょうか。でも、そんなことができるのも、貴方が優しいからなんでしょうね」


 彼女は顔を動かして、俺の体の心臓付近を見た。彼女は何度もその部分を触ったり払ったりして、その黒い塗りつぶされた『感情』とも言えるものを見ようとしている。


「きっと、綺麗な色なんでしょうね。……変ですよね。あれほど見たくないと思っていたのに……今は、貴方の色が見たくて仕方がないんです」


「……贅沢な悩みですね。見たいものだけを見て、聞きたいものだけを聞けるのなら、それはとても楽なことだ。けど、現実はそうじゃない。自分が欲しくてたまらないものほど、きっと手には取りにくい。そういうものでしょう」


「……そうですね」


 これ以上は流石に遅くなりすぎる。ここら辺で切り上げるとしよう。彼女の頭を軽く叩いて、そろそろ帰るとの旨を伝えた。それを聞いた彼女は、どこか悲しそうに頷く。自分が彼女の理解者になれたと豪語するわけじゃない。それでも、やはり不安なものなんだろう。弱音を、抱え込んだ辛さを話した相手と離れてしまうというのは。


「あの……また、会えますか?」


 潤んだ瞳で、下から見上げるように彼女は見つめてくる。一瞬胸が高鳴ると同時に、頭の中で昔の記憶が蘇ってきた。


 ───ひーくん、一緒に寝ちゃダメ?


 まだ幼かった時だが、菜沙はよく一緒に寝たいとせがんできた。その時に俺はいつも断れなかった。なにせ、彼女は自分でその潤んだ瞳を使いこなしていたのだから。断れるわけもない。


 花巫さんの仕草にドキッとしたけど、何だか物足りなかった。これは、あれだ。菜沙のせいだ。足りない胸を補おうとするあまり、俺から胸のドキドキを奪い去ったに違いない。おのれ菜沙、なんて考えながら彼女に返事をする。


「……えぇ。まだ仕事終わりませんから」


「……良かった。あと少しの時間だけでも、貴方と過ごしたいって思ったから……」


 嬉しそうに微笑む彼女を連れて立ち上がり、神社の裏手に向かっていく。そして、昨日も見たあの洞窟の前にまで歩いてきた。多くのお供え物が置かれていて、洞窟の奥の方を見ると何故か身の毛がよだつ。生暖かい空気が奥から流れ出てきて、鳥肌が嫌というくらいたち始めた。


「……花巫さん。ここって何か祀られてるんですか?」


「ここですか? ここはですね、この村の豊穣神が祀られてるんですよ。だから、毎日交代でお供え物を捧げて、一世代毎にお祭りを開くんです」


「お祭り?」


「はい。とは言っても……お祭りというよりは、儀式みたいな感じですかね。私も詳しくはわからないんですけど……」


 彼女がいうことには、もうすぐその儀式とやらが始まるらしい。こんなに多くのお供え物を、毎日別の人達が備えなければならないのか。納税なんかよりよっぽど厳しいのではないか。


 これでは、いくら豊穣神とは言えども生産と供給に割が合わないだろう。それとも、そんなに大事な伝統なのだろうか? 確かに、この集落の野菜はみずみずしくて美味しいが……。それらがひとえに神のおかげだと?


「………」


 あまり好ましくはない考え方だった。少なくとも、俺にとっては。


 アダム・スミスの『神の見えざる手』という理論がある。経済系の話で、お金の循環等に関する理論なのだが……言ってしまえば、俺たちは生活してお金を回しているだけでいい。何か問題が起これば、神様がどうにかしてくれるだろう、という考えだ。もっとも、世界恐慌やらオイルショックやらでその理論は破綻した訳だが。


 いやまったく、世を壊すのはいつも人で、世を直すのはいつも人なのだ。そこに神の介入する余地などないものだと俺は思う。神様が天変地異を起こすよりも、どこかの国がアメリカ辺りに核ミサイルぶっぱなした方が世界は崩壊する。そんなものだ。


「……今日も遅くまでありがとうございました」


 考え事をしていたら、どうやら彼女の家の前に着いたようだ。小さく頭を下げてお礼を言う彼女に、俺はたいした事はしていないよ、と返した。その言葉に彼女は笑って、そんなことはないですよ。私は救われた気がします、と言った。


「……あっ、このタオル……洗って返しますね」


 彼女の首にかけたタオルは、先程汗をかいていた彼女に渡した物だ。保冷剤と一緒に包んでおいて良かった。あの時の彼女の状態は見ていて心配になるほどのものだ。外的要因ではなく、心理的な要因だろう。話すことを心のどこかで拒否をしながら、しかし話して楽になりたかったという思いの二つがぶつかってしまったのかもしれない。


「また明日……会いませんか? ほら、その……タオルも返したいですから……」


「良いですよ。とりあえずまた同じような時間帯に立ち寄ることにします」


「わかりました。それじゃあ……おやすみなさい。今日はありがとうございました」


 彼女に頭を下げて、来た道を戻ることにした。そしてまた、あの洞窟の前まで移動する。田舎を吹き抜けていく風の音に紛れて、別の音が耳に届く。


 ……何か、聞こえる。


『テケリ・リ。テケリ・リ』


 人の声ではない。いや、そもそもこれは声なのだろうか。音と形容するのが正しいのかもしれない。くぐもったようにも聞こえるし、いやに高くも聞こえる。説明しがたい音だった。


「………」


 その音は洞窟の奥の方から響いているように感じた。この集落の豊穣神が祀られているとされる洞窟。この先に、何かいるのだろうか。


「……神話生物か? だとしたら、流石に一人じゃ不味いな。それに確証も何も無い」


 少しずつ勇み足でその洞窟に近づいていく。縄が入口を塞ぐように張られているが、それを潜って少しだけ中に入ってみた。奥の方は暗くて何も見通せない。しかし、生臭い匂いと湿った生暖かい空気が奥から漂ってくる。あまり気分のいいものではない。長くい続けたら吐き気がしそうだ。


 そんな状態の中で、何か得られるものはないかと辺りを見回してみる。暗がりの岩場に、黒いカバーの小さな手記が落ちていた。これでも夜のうちなら月の影響で夜目が多少効くので、昼間ならむしろ見落としてしまうかもしれない。しかし、この夜目が効く状態でも奥の方が見通せないとなると、明かりが一切ないのだろう。


「中身は……ッ」


 その手記は、綺麗な字で書かれた日記のようなものだった。いや、日記というよりは調査した事柄を日付で纏めたりしたものだろうか。パラパラと捲ると、この集落に来てから調べたことについての疑問点などを書き上げているページがあった。とりあえず、これは恐らくこの集落に調査に来ていた諜報員の物で確定だろう。だが、問題はそこではない。


「なぜ、こんなところに……?」


 ……ここで、諜報員に何があった?


 いや、待て。ここでそれを考え続けるのは良くない。ここにいるのが誰かに見られたら、まず間違いなく集落の人達に襲われるだろう。この手記がここにある時点で、それを物語っているのだから。


 諜報員は確かにこの集落に来て、そして殺されたのだ。更にそれを集落の人々は必死に隠そうとしている。


 適当な嘘でもでっち上げればいいものを、彼らは何故ひた隠しにしようとしている? それほどまでに知られたくない何かを、この諜報員は調べてしまったのか?


 いずれにせよ、この場から離れて報告に戻るとしよう。そう思ってすぐにその場から駆け出した。身体能力の向上した夜のうちだから出せるスピードで走り抜け、長い階段を飛び降り、民宿に向けて怪しまれない程度のスピードで帰って行く。洞穴の中から聞こえる声のようなものといい、消えてしまった諜報員といい、既に心の中では警鐘が鳴り響いていた。



To be continued……

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