寒中水泳

 静かな湖畔の町だった。

 湖はちょっとした海と見紛うくらいの規模おおきさである。人口は少なく、されど物の流通は悪くなく。周囲に高い山も建物もないため、四季の影響を受けながらのんびりと時間の流れる場所だった。


 たえはこの町に生を受け、十数年暮らしてきた。両親は既に老い、きょうだいや親戚もない彼女には、その面倒を見るという未来が確定していた。

 それを不服とは思わなかった。むしろ、町にとどまる理由ができたとすら思っていた。

 妙子はこの町が好きであり、この町に住む人たちがまた好きだった。

 あるとき、から人間が引っ越してきた。歳の頃は妙子と同じであったが、垢抜けていて大人びていて、妙子よりずっと可愛らしい女の子だった。

 きょうだいや親戚どころか、同年代の友だちすらろくにいなかった妙子は、案内役を買って出た。


 少女の名前は美姫みきといった。妙子はなぜか、それを洗練された名前であると感じた。ふたりはすぐに仲良くなり、妙子は滅多に自発的に踏むことのない、湖畔の外の土を踏みしめた。

 気の合う両者にとっては、それは幸せな時間であった。都会の暮らしに疲れたという美姫、生まれた町以外は知らない妙子。パズルが噛み合うような相性の良さだった。

 あるとき、妙子は言った。

「もし、わたしと一緒にここに住んでほしい、と言ったら、承諾してくれる?」

 それは契りプロポーズの言葉にも近しいものだった。妙子は赤面していた。美姫もまた、すぐにそれの意味するところを解した。

「もちろん、いいわ」

 ふたりは見つめ合い、手を取り合った。これまで感じていた幸福が、何倍にも膨れ上がるかのような気分だった。



 しかし、その幸せに水を差すものがあった。

 美姫を追ってきた婚約者フィアンセであった。この婚約者はとかく横暴なことで悪評高い男だった。黒いスーツの従者を何人も侍らせ、偉そうに振る舞っていた。

「次の日曜までに答えが出なければ、その友人とてどうなるかわからんぞ」

 あくまで拒否する美姫に、男は脅すような言葉をかけた。


「わたし、離れたくないわ。あんな男の言いなりになるのは絶対嫌。だけど……」

「……わたしのことを心配してくれているの? それなら……」

「いいえ! あの男は……危険よ」

 美姫は目を伏せた。今の今まで気づかなかったが、彼女の右腕には黒黒としたあざが浮かび上がっていた。

 それで、妙子は決心した。




「いなくなった……どんな魔法を使ったの?」

「ふふ。少しばかりもらったのよ。今の時期でも、夜は冷えるし……水を吸った服は重たくなるわ」

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