鍵盤の女神
ピアノの音色が聴こえる。それは情熱的で狂おしく、奏者の魂が籠もっていると、一聴してわかる、美しい調べだった。
わたしは生憎とピアノのことには詳しくないが、鍵盤の白黒を行き交う独立した生き物のような手指、時には髪を首を服を振り乱しながら全身で音楽を表現するピアニスト、その情景に憧れ、心震わせ……そして、あらん限りに褒め称えることを忘れはしなかった。
わたしは彼女の邪魔をせぬよう、慎重に足を浮かせて部屋の中に入った。壁越しよりも一層際立って、わたしの鼓膜を震わせる。
窓の向こうはただ青空が広がっていた。ともすれば物悲しさを孕んだ旋律は、開け放たれた外界、無限の青とミスマッチにも思える。ただその心配はすべて杞憂だ。彼女の演奏は、曇天はおろか太陽でさえ役者不足の質である。まるで生命活動のすべてを指先に託したかのような演奏で、終わる頃には夕立にでも降られたかのように汗をしとどに垂らした彼女が、肩を上下させながら楽譜を取り下げた。
思わず拍手を送る。彼女はぎょっとしてこちらを見た。
「……いつからそこに?」
「ついさっきです。その……ごめんなさい」
勝手に入ったのは良くなかったかもしれないが、この才能をただの趣味の枠に留めておくには惜しすぎる。
「別にいいけど」
ふぅ、ふぅと荒く呼吸する彼女は、椅子から立ち上がるのもやっとという風情だった。わたしは咄嗟に駆け寄り、その腕を――彫刻のそれをも凌駕する、瀟洒で何一つ瑕疵のない白魚のような指先を――掬い上げた。
「……ありがとう」
ふい、と横を向いた彼女の頬に朱が差した。
「すごいわ」
本当にすごい。わたしは心からの称賛を彼女に浴びせた。その技量からして褒められ慣れているものと思い込んでいたが、彼女はどうにも気恥ずかしそうにもじもじしている。
「まだまだ発展途上だし。恥ずかしいもの」
「そんなことない! 誇るべき技術だよ」
盤上では神も同然の独壇場を展開していた彼女も、今は人の身として、わたしの口からとめどなく溢れる言葉たちに赤面し、辟易している。彼女の演奏が素晴らしいのは本当だが、少しだけほんの少しだけ、その様子が可愛くて、捲し立ててしまった。
「もういいでしょ」
彼女は相変わらず頬を染めたまま、あっちいけ、というふうに手をひらひらさせた。少しむっとする。わたしだって引き下がるつもりはない。
「このピアノ、毎日だって聴いていたい」
褒めて褒めて褒めちぎって、彼女自身にその技量を認めさせてやるんだ。
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