患う
「教授」のオンボロ車が、私の会社のビル前に停まる。雨だというのにご苦労なことだ。
「お乗り、やっちゃん」
ドアを開くと、にたぁー、っと笑う教授と目が合った。
「そのやっちゃんっていうの、やめてください」
「なんで。
大学に着く。私が通っていたところだ。尤も単位はギリギリで、ほとんどお情けで卒業させてもらったようなものだが。
研究室に上がる。学生はいなかった。
「私のゼミは人気がなくてね」
教授はそう嘯いて、タバコに火をつけた。
教授は女性だ。
「今日は鍋だよ」
進学を機に上京して、大学も会社も寮住まいでともすれば生活バランスの崩れがちな私の世話を、教授は何かと焼いてくれる。
「教授、意外と料理上手いですよね」
「独り身の嗜みってことよ」
コートを脱いで、適当な椅子にかける。今はすっかりみすぼらしくなったが、かつてはここでノーベル賞に王手ともいわれる研究をやっていた。
3年前の冬の日、この研究室で、私は教授に告白された。
「貴女のことが好きで、好きでたまらないんだ」
膝までついた彼女に、私は悩んだ末、NOを突きつけた。自分のセクシャリティがどうとかじゃなくて、単に私と教授とじゃ合わないと思ったからだ。
それが彼女をノーベル賞から遠ざけることになったとしても、私は後悔を、いや、心のどこかではしているのかもしれない。だから今でもこうして、教授の研究室に――他に誰も来なくても――通い詰めているのかもしれない。
「こんなトシじゃ、もう恋なんて叶いっこないのにね。あたしは底なしの馬鹿だ」
そう言って泣いた教授はあの日のことを、あれから口に出さない。私も言及していない。
「できたよ、鍋」
「わあ。いただきまーす」
「冬はこれに限るね」
とかなんとか言いつつ、教授は発泡酒のタブを開けた。研究室で呑んでも良いものだろうか。そこまで精密な分野ではないとはいえ。
「しっかし冷え込むね。雪でも降るんじゃないか」
「初雪の可能性高いって、天気予報でやってましたよ?」
「げぇ。マジで?」
じゃあ泊まってきなよ、と冗談混じりに教授は言う。私も私で、置いてったシュラフ使いましょうか、などと返す。
冬の夜が更けていく。平和でさえあればいい、とでも言いたげな静けさを孕んだままで。
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