もう一度

 久保くぼ咲良さくら。一部界隈ではその名を知らぬ者がいないとまで言われた、「地下」では伝説のアイドルだ。ユニット『ラヴリイ♡パンナコッタ』のセンター及びヴォーカルを3期ほど務め上げ、同グループの数年以内のメジャーデビューを確実と言われるまでに成長させた立役者。グループでの活動はもとより、ソロシングルもリリースするほどの実力を持って


 過去形なのは、私が……が、現役引退という形でアイドル界から姿を消したためである。前日にメンバーにだけ伝え、そのあくる日にいつも通り行われたライブは盛況のうちに幕を閉じた。マネージャーやメンバーからの電話やメールがひっきりなしに来ていたケータイを解約し、私は予約していた飛行機で青森の寒村へ飛んだ。


 私は、「久保咲良」とは関わりを断った。名前を変え、このひとのない村でひっそりと第二の人生をやり直すのだ。地位も名誉もないが、誰にも迷惑をかけない、私なりの生き方で。



 しばらく化粧もせず、いわゆる女の子らしさとは一切無縁で、第一次産業に従事していた。生活は豊かではなかったが、近所の人とも付き合いができて、楽しかった。

 それでも。

 心の何処かが、「久保咲良」を求めていたように思う。



 秋のある日。私は借りた畑の見回りを終え、家に戻った。

「……あれ」

 家の前にタクシーが停まっていた。来客の予定なんてあっただろうか。そんなことを思っていると、玄関チャイムが鳴った。

「はい、ただいま――」

 戸を引き開けた瞬間、私の時間が止まった……否、また動き出した、というべきか。

「……咲良」

「……すみ、どうして」

 そこにいたのは、『ラヴリイ♡パンナコッタ』のキーボードで私に続く二番目の古株にして私の一番の大親友、沢上さわがみ佳純だった。

「……調べたの。だってずっと……ずっと貴女に会いたくて」

 追い返すわけにもいかない。だからって、今更戻れるわけがない。

「付き合ってた男にストーカーされてたって。家に脅迫状が届いてたって、あれは」

「……本当だよ。『ラヴパン』を結成する前、付き合ってた人」

「……捕まったよ、そいつ」

 私は目を見開いた。

「ライブハウスに押しかけてきて、咲良を出せって暴れたけど、すぐお縄になった」

 ……私は『ラヴパン』のみんなに、マネージャーに、ファンに……これ以上迷惑をかけるまいと、身を引いたのだ。くだらない男なんかのせいで。

 でも、その理由が消えたとしたら?

「咲良、もう一度――」

 私はもう一度……あそこに、立ってもいいのだろうか。

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