喪失

 推しは推せるうちに推しておけ。これは、3次元と2次元を問わず、「推し」の存在する人間なら必ず心に留めておくべき鉄の掟だ。いつ目の前から「推し」の姿が失くなるか、わかったものではないからだ。


 私はそれを怠った。

「引退……?」

 欠かさずブログもSNSもチェックしていたはずだ。更新が途絶える前日までそんな兆候はなかった。嬉々としてライブのセットリストに言及していたではないか。共演した娘と笑顔で肩を組んだツーショット・スリーショット写真も……あれらは全て幻だったと?

「はい。本人も詳しい理由は告げないままで……携帯に連絡してもさっぱり返事がなくて」

 申し訳ございません、と何度も頭を下げてくれたマネージャーには悪いが、私は彼の言葉もほとんど上の空だった。


 久保くぼ咲良さくらが引退した。

 私が推していたアイドルで、グループ『ラヴリィ♡パンナコッタ』のボーカルで、深夜帯とはいえ地上波に出たこともある、今ノリに乗っている……いや、ノリに乗って「いた」か……アイドル。

 放心状態でリュックを背負い、いつも『ラヴパン』がライブをやっていた劇場から逃げるように遠ざかる。何故だとかどうしてこんなことにだとか、それすらも考える余裕はなく、私はただ空っぽになった頭で、辺りをほっつき歩いていた。


「うぐ…………」

 昨夜の記憶はない。全身が痛い、冷たい……目を覚ましたのは公園の遊具の上で、足元に散らばった度数の強いチューハイの缶で全てを思い出し、今度こそ声をあげて泣いた。

 思えば推しに貢ぐようになってから、酒をはじめ嗜好品の一切を断つようになった。どの道大した趣味もなかったが、その分、咲良に徹底的に愛という名の熱をぶつけた。裏切られたなんて思っちゃいない。ただ一言、引退しますと言ってくれればそれで良かった。消えるようにいなくなった彼女の穴を、一体『ラヴパン』の誰が埋めるというのか。

 今更何を言っても始まらないのは知っていたが、ブランコを漕ぎながらアラサーのアイドルオタクは考えた。咲良が、推しが生活のすべてだった。咲良のいない人生なんて考えられなかった。咲良に貢ぐ行為そのものが、途轍もない快楽となって私に襲い掛かった。

「結局、エゴなんだよ、推すも推さないも、ファンもアイドルも」

 すっかり酩酊した頭で、記憶にはないが手元にあった缶チューハイのタブを開く。咲良ぁ、と涙に震える声を出して、それでも恋を諦めきれない少女のように。私は呑んだ。

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