愛すべき我が命、慈しむべき我が理

 ──1933年 最果て「魔女の谷」






 はじめに世界があった。

 何もない、まだ何も作られていない、まっさらな空間。空も、海も、大地も、世界を形作るための全てが備えられていない、言うなれば世界の卵とでも言うべきものが。今、眼前にある。

 そこへ、ふわりと光が降りて、更に闇もふわりと昇ってきた。光は美しい女神の姿を、闇は美しい女神の姿をそれぞれ写し取る。

 同じ外見、だが色合いの異なる鏡合わせのようにそっくりな容姿をした女神達は微笑んで、互いに明るい肌と暗い膚を重ね合わせた。光の女神の銀に輝く瞳が闇の女神の金に光る瞳と、視線が絡まり合う。

 それは肉体を伴わない交接だった。交わすのは身体ではなく、精神である。混ざり合うのは心だ。こうして闇は光を、光は闇をそれぞれに宿した。闇の中の光を陰中の陽、光の中の闇を陽中の陰という。

 このとき光は闇を知り、闇は光を知った。

 これが、この世の始まりである。


 ◆◆◆


 魔法にかけられたフェルデニウムと架音が座ったまま目を見開いた状態で気絶しているのを見て、魔法をかけた張本人である魔女「リコルダ・フィオーナ」は、くすくすといたずらっぽい笑みをこぼす。飲みさしのお茶が冷めてしまわないように保温の魔法をかけ、食べかけのケーキをフォークで切り分けてひと口頬張る。

 今、2人が見ているのは世界の記憶だ。この星が積み重ねてきた歴史のうち、リコルダ達魔女が引き継いできた最も重要なワンシーンだけを切り抜き、彼女らに見せている。

 世界のはじまり、命のはじまり、そして世界にもたらされた「夜明け」の瞬間。黎明から今の世へと続く軌跡のすべて。人の一生など瞬きのうちに過ぎてしまう魔女にとっても永すぎる時の流れだ。


 夏の盛りを迎えたこの地では、夜でもまだ空は明るく、昼日中のように日差しは眩しく熱い。じわじわと肌をなぶる暑熱にため息も吐きたくなる。

 氷できんきんに冷やした炭酸水を口に含み、リコルダはローブの内ポケットにしまったままの文庫本を開いた。この前わざわざ王都まで行って買ってきた、話題の人気作家による最新作である。魔女だって娯楽小説を楽しむ時代だった。


「どれ、しばし私は読書タイムを楽しむとしますか。まったく、この魔法を使うとしばらくお話できないのがもったいないんだよねぇ……残念だなぁ、せっかく訪ねてきてくれたお客さんなのに」


◆◆◆


 光の女神──白妃は告げた、光あれ、と。

 闇の女神──黒姫は呟いた、闇あれ、と。


 それは天地開闢の御業だ。

 世界の卵に空と大地が生まれ、やがて海ができ陸と別れ、海には魚が、陸には森や川がそれぞれ生まれ、世代を経て変化しながら更に増えていく。のちの科学によってさえ解き明かされることのない、真実の神話として天地開闢の御業はある。

 生き物は更に生まれ数を増やし社会をつくり世代を重ねて更に進化する。雛形として用意した箱庭せかいが少しずつ、枝葉が伸びていくように成長するのを見て、女神達は星のもとへ降りた。女神であることをやめ、更に世界を「次」へ進めるために。

 白き妃はその名を「ラヴァーナ」と。

 黒き姫はその名を「ミネルヴァ」と。

 それぞれに改め、原始の世界にあるひとつの超常をもたらした。すなわち世の理を変え操る力である「魔法」と、魔法を司る者として女神の化身たる「魔女」を。

 ラヴァーナは命じる。「魔女よ、人のために世のために魔法をとく修めよ」と。

 ミネルヴァは命じる。「魔女よ、人のために世のために魔法をとく治めよ」と。

 魔法が箱庭を良きものにするように、魔法が箱庭を壊さぬように。女神達は願い、託した。女神達が残した智恵と智識、そして星の記憶を今に受け継ぎながら、魔女は魔法と共にあり続ける。

 魔法は世界に夜明けをもたらした。

 人は本来知るべき変えられぬ世の理の変わりに、魔法による利便を知り、それによって生活を豊かにする法を学ぶ。

 魔法は治せぬはずの病を癒し、魔法は建てられぬはずの高層を築き、魔法は行けぬはずの場所へ移す。ゆえに魔法は万能といえた。魔法があれば、魔法さえ知れば、できぬことはない。ある意味においてそれは確かなる「真理」だった。


◆◆◆


「いらっしゃい……って、あら、リコ様ではないですか! ここへ来るのは3年2ヶ月17日ぶりですね! 今日はどんな本をお求めですか?」


 文庫本をあっという間に読み切ってしまったリコルダは暇を潰すため、魔女の谷にひとつだけある図書館へ訪れた。ここには娯楽小説はもちろんのこと、「外」では貴重な魔導書、雑誌に新聞に図鑑になんでも揃っている。本好きには夢の空間といえた。リコルダが地下の書庫に揃えている本達の写本も、この図書館の閉架書庫にある。

 火防と守護の結界を張った、窓がなく空調の効いた館内は暗く涼しい。

 天井に貼りつきそうなほど背高な書架にぎっしりと分厚い革張りの本達が納められ、それが等間隔に幾列も続く。本棚というより壁に近い。出入口にある貸出カウンターと中央のブラウジングスペースを除けばほとんどの空間が書架で埋められていた。

 気まぐれに開かれる魔女の図書館は既に閉館しており、館長はとっくに退勤していた。居残っているのは、本の魔女に師事する見習い魔女にして司書の「マイミー・ウィスタリア」だけである。

 名の通り藤色の髪を伸ばして緩く束ね、星空のような柄のローブをまとっている。そばかすの浮いた顔に厚いレンズの眼鏡をかけた柔和な雰囲気の少女は、一旦作業の手を止め挨拶する。対するリコルダも笑みを返し、親しげに応じた。


「ああ、マイミー、お久しぶり。あなた、また背が伸びたね。もう少しであの子……本の魔女も抜かしてしまうんじゃない?」

「本当ですか!? あたし、がんばって先生よりもおっきくなりたいんです! リコ様にそう言ってもらえるとやる気が出ますっ」

「大袈裟だなぁ、でもそうだね、私の言葉には魔力があるし……いつか本当になるかも」

「もちろん真実にしてみせます! そうだ、リコ様が気に召しそうな本が手に入ったんですよ。その名も『黒き姫宮の手記』と『ラヴァーナの日記』の2冊です。たまたま人の国で質に流れてきたのを先生が回収して……これから内容を確かめる作業をするそうですが、よかったら先にリコ様が見てみませんか?」


 どちらも創世神話に関わる女神を表す語句がタイトルに入っている。その手の偽書は今まで数多く出版され、その度に魔女達は中身の真偽を確かめてきたが、多くは人間が人間のために書いた娯楽目的の物語にすぎなかった。だが、もしもこの2冊が偽書などではなく「本物」だったら。魔女の存在意義が揺らぎかねない、かもしれなかった。


「……、興味深いね。マイミー、悪いけれどそれはあなたの師匠……『本の魔女』と共に内容をじっくり検分する必要がある。仮に本文が私の知る『真実きおく』と同じならば、『表』には置けないし出せない」

「え、これ、本物の疑いがあるのですか? あたし、てっきりまた人族が勝手に想像した神話の創作本だと思って……」

「その可能性は高いよ、でも万が一ってこともある。表題に直截的な名称を使うのならば特に、ね。油断はできない。だからきちんと精査しなくてはいけないの。大丈夫、ちゃんと偽書ならここに置いておけるよ」

「……そうであると願います。いち司書としては、これ以上本が封じられるのは……身を切られるのと同じくらい、辛いですから」


 2冊の本を大事そうに持ち帰り、とっくに自宅へ着いているであろう館長もとい「本の魔女」へ言伝を送る。彼女がメッセージに気付けば、深夜には家へ来るだろう。その時にじっくり話せばいい。

 作業に戻ったマイミーと別れ、リコルダは客人が待つ自邸へ帰りついた。既に記録の全容は再生し終わっていたのか魔法は解け、架音もフェルデニウムも気絶状態から回復している。

 彼女らにリビング兼客間へ入るよう言いつけ、さっさとテラス席の片付けを済ませる。といっても家事の大半は即席の使い魔にやらせればいいので、リコルダが直接しなくてはいけない仕事などほとんどないのだが。

 大人しく立って待っていた2人に腰掛けるよう勧めて、彼女はスライスしたレモンを添えた炭酸水を振る舞った。大事な話をするときは、頭が冴えるのでいつもこの飲み物をお供にしている。


「……訊きたいことが山ほどあるって顔をしているね。いいよ、答えられることなら何でも教えてあげる。私は魔女だもの、1番初めの魔法使いだから、ね」


 最初に口を開いたのはフェルデニウムだ。張り詰めた顔には先程よりも更に色濃い畏怖が刻まれている。


「では単刀直入にお尋ねします。あなた達『魔女』とは、何なのですか? 私達が今まで使ってきた『魔法』とは何なのですか。……今しがた見せられたあの『記憶』は、真実ほんとうのことなのですか……!?」


 予想される問いに対しリコルダは、怪しげに、優しげに、教えを乞う出来の悪い生徒にヒントを授ける教師の如く、


「魔法とはこの世の『本来の』法則に反する理を『世界の外』からむりやりに持ち込み、強引に運用する禁忌の技術。魔女はそれが真実の理を侵さぬよう見張る者。そして今見せたのは、ミネルヴァの使徒とラヴァーナの使徒がそれぞれ受け継いできた『秘密きおく』だよ」


 ──憐れみを込めて悲しげに笑いながら。

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