もう、「ひと」ではなくても

主題:『オグル化現象及び、呪詛転変による影響についての考察』

著者:ローズマリー・サトゥルヌス/共著:×××××(上から黒く墨塗りされ、名前は分からない)

(前略)

 ……以上の観点から、1度鬼に転化した者を人に戻すには解呪をおいて他に方法はない、と断言できる。千年草を用いた解毒薬を服用させても患者は薬効が持続する一定時間のみしか理性を保てず、薬が切れれば再び暴走するリスクがある。

 ただし本物のオグルと違い驚異的な再生力を持たないため殺傷は比較的容易だが、その分知能が高く魔法や戦闘技術を駆使する者も確認されている。加えて鬼特有の身体機能はそのままなので一般人が対応するのは至難である。なお通常武器による攻撃は有効と思われる。

(中略)

 また、オグルの中でも呪いの影響が軽い者は稀に人としての人格や記憶、思考を保っている場合があり、その場合彼ら彼女らをあくまで「鬼」として扱うか、それとも「人」として認めるか、生命倫理において喫緊の課題であると筆者は懸念する──……。



◆◆◆



 ──1933年 シュバルツベルン辺境「ポートヘブン」


「……マリー、どこ……? それにここは? 俺、あのあとどうなったんだっけ……」


 魔法による眠りから目を覚まし、鬼化してからやっと明瞭な意識を取り戻した少年、セージはきょときょとと辺りを見回した。

 自分が寝かされているのは薄っぺらで堅いベッドで、申し訳程度に掛布と枕がある。明り取りの小さな窓が設えられた狭苦しい部屋はカビ臭く埃っぽい。古びた電灯が弱々しい光を放ち、室内をぼんやりと照らしている。ベッド脇に小さなテーブルとチェストがある以外に調度は何もなく、いやに質素というかみすぼらしいところだなと彼は思った。

 頼みの綱である師匠の姿はない。何か用事でもあるのか、今は退室しているようだ。探しに行こうかとも考えたが、見知らぬ場所で無駄にうろちょろ動き回っても迷惑になってしまう。大人しく待つことにしたが、彼が起きてから幾ばくも経たないうちに彼女は戻ってきた。


「あら、もう魔法の効果が切れたのね。鬼になると耐性もつくのかしら。気分はどう? 食欲はある? 衝動の方は?」

「え、あ、……お腹空いた。でも、なぜか今は人を食べたいとは思わないな……」

「なるほど。つまり試薬の効果は上々ね。これなら人を食べずとも通常の食事で栄養の摂取は可能だし、人里に降りても被害を出す危険性は低い。実験成功よ、おめでとうセージ」

「えっ!? まさかと思うけど俺で人体実験してたの!? 酷ッ、マジひっど! あんた弟子のことなんだと思ってんだ!!」

「えへへ、バレたか。だってここにちょうどいい被検体サンプルがいたものだから、つい……。でも抜群に効いたでしょう? セージの体質に合わせて調合したから薬効も相当に保つし、食人衝動も限りなくゼロに抑えられた。どう、これで文句ある?」

「も、文句は……ないけどさ。せめて一言何か言ってくれよ……」

「いつもなら確かに声かけたけどね。今はとにかく時間がないんだもの、いちいち確認取ってる暇なんかなかったのよ。それにこのあと予定だってあるし」


 予定? と首を傾げた少年に魔女はにっこり笑いかける。2人が置かれている状況は過酷極まりないというのに、それを微塵も感じさせない好奇心に満ち溢れた笑顔だった。


「ここ、どこだと思う? 国外へ出る唯一の手段『仮想船』が泊まる仮想の港──ポートヘブンよ! これから私達は国を出て、世界を巡るの。解呪の方法を探すために」

「……はっ? えっ? おい……マリー、あんた一体何を考えてるんだ!? お尋ね者になっちまうぞ、く、国を出るだなんて……っ」

「だって仕方ないでしょう。このままこの国に居たらあなた殺されかねないもの、亡命でもしなくちゃ生き残れないじゃない」

「だからって国外逃亡だなんて……っ、最悪見つかったら銃殺刑になっちまうぞ! 俺一人が出国するのはまだいい。けど、あんたまで一緒に行くことないだろう!」

「何言ってるの、私がいなきゃあなたはまた鬼に戻っちゃうじゃない。それより、ほら早く着替えて支度して。ご飯食べに行くわよ。せっかく港町に来たんだもの、このまま素通りするなんてもったいないでしょう?」


 ローズマリーがポートヘブン経由で出国すると決めたのには理由があった。セージが意識を取り戻す前、昨夜のことである。魔法で眠らせた弟子を連れてスフィール近隣の村へ着き、一室だけ空いていた宿に身を落ち着けた彼女の元へ、ある者が訪ねてきた。

 彼女の名はフェルデニウム・アポロニウス。王都において名門と名高い魔法使い一族アポロニウス家の末娘であり、国内最高峰のインテリたる王国魔導研究所の職員である。

 アポイントもなしに突然来訪した彼女がたらした報により、王都に起きている緊急事態とスフィールを襲った異変について、ローズマリーの知るところとなった。

 もう王都はダメだ、とフェルデニウムは結論付けた。

 直属の上司である所長が犠牲となり、元老院に隣接する他の重要施設でも同様の被害が出ている可能性が高いという。機密保持のため強固な守りを敷いている研究所でさえ壊滅的なダメージを受けているのだ。裁判所や議会、騎士団本部や司令部も既に墜ちているだろう、とフェルデニウムは告げる。

 それから、彼女は最後にこんなことを言い残していた。そのときの表情をローズマリーは今もなお忘れられずにいる。


『……もう、あなた様だけが頼りなのです。同僚はおそらくみな死にました。市井の魔法使いもどれほど生き残るやら皆目検討もつきません。祖国たるシュバルツベルンを守れるのはただ1人──ローズマリー・サトゥルヌス様、あなたを置いて他にはいないのです。自分の力不足を承知の上でお頼み申し上げます。……救ってくださいませんか、我らが祖国とその未来を』

『分かりました。戦友であり我が同胞たる国王には哀悼を。それとあなた方の長へもお悔やみを申し上げます。……彼らが託した希望を必ず守ってみせるとお約束しましょう』

『あぁ、……感謝します。本当にありがとうございます、サトゥルヌス様。では……私共はこれにて』

『待ってください! ……あの、お二人は今後どうされるつもりで……?』

『……私はこれより、この娘に全てを伝え、己の責務を果たさなくてはなりません。サトゥルヌス様の傍に付いてお手伝いをして差し上げたくはありますが、彼女を人里には置けません。あのような悲劇を繰り返すわけにはいきませんから……すみませんが、もうしばしの猶予を。必ずや合流しに参ります』


 灰燼に帰した森の中を夜通し歩いてきたのだろう、魔力はなるべく温存しなければならないから。煙を浴び、煤に汚れた薄黒い顔に一筋の涙が流れ落ちる。

 身にまとった白衣もその下のスーツもこちらへ来るまでの道程で裾を解れたりあちこち裂けていた。普段、歩き慣れている彼女達だからこそ怪我なく移動できるのであり初めて通ったであろうフェルデニウムではこうなるのは目に見えている。

 唇を震わせ、懸命に嗚咽を漏らすまいとしている華奢な女性に対し、往年の魔法使いたるローズマリーは仄かに微笑みかける。聖母のごとく優しい笑みだった。


『その子はとても恐ろしい呪いを秘めていますね。あなたは自分の力だけで御そうとしていますが、それは酷く困難を極めるでしょう。辛くなったらいつでも呼びかけてください。……決してあなたを独りにはさせません。すぐに駆けつけますから、だからどうか、一人で抱え込まないで。私はあなたの味方です』

『ありがとうございます……っ、ほんとうに、どれほどお礼を申し上げたらよいか……っ』

『あぁ、泣かないで。流すのなら嬉し涙にしましょう? さぁ、行ってください。そしてまた私に元気な顔を見せてくださいね』


 言いつつ魔法で身なりを整えてやり、解けていた髪も手持ちのリボンで結び直してやる。空色の瞳を潤ませながらフェルデニウムは何度も頭を下げ、村娘の格好をした少女を大事そうにかかえて去っていく。転移魔法で人里から距離を取っていく二人を見送る頃には、既に夜が明けかけていた。


「……マリー? どうしたんだよ、むっつり黙りこんじゃって。何か悩み事でも……って、こんな状況じゃ悩みしかないよな……」

「え? ああ、別にどうってことないのよ。気にしないで。……それより早く外へ行きましょう。こんなところにずっと居たんじゃ滅入ってしまうわ。さ! ほら早く用意して」


 明らかに空元気と分かる様子の師に怪訝な顔をするセージだが、望まれもしないのに深く追及するのも躊躇われ、分かったと一言呟いて着させられていた寝巻きから普段着に替える。既製品のシャツにズボンという町の子供らしい格好は、彼が鬼であるという事実をすっかりと隠してくれた。

 ベッド脇の小さな窓からは、とても「つくりもの」とは思えぬほど精巧な造りの港町が垣間見えている。国を離れる者は必ずここを経由して外つ国へ往くのだ。そう、他ならぬ自分達も。


「……どうか、無事に旅立てますように。なんて、ほんとにカミサマなんてものがいるのか、分かんねぇけどな」

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