せめてこの手で、せめて祈りを

「……。……ここ、どこぉ……??」


 明るい午後の日差しに照らされたどこまでも広がる草原は、まるで緑の海原のよう。雲ひとつなく晴れ渡った空は鮮やかなターコイズブルー。肌をなぶるそよ風は優しくあたたかく、夜の冷たい空気に凍えていた身体をそっと包み込む。

 おそらくここは住み慣れた東京の街ではない。こんなにも自然豊かな、空気の澄んだ場所なんて近所にあっただろうか。少なくとも架音の記憶にはない。


「これは、もしかしてあれかな……ラノベによくある『異世界転移』ってやつ……?」


 最近よく読んでいるライトノベルも、たしかそのような題材だった気がする。流行っているのか、本屋の書棚を埋め尽くす勢いで異世界を舞台にした小説が発行されているようだ。架音が今置かれている状況はまさしくそれに酷似している。

 と、いうことは。ここは異世界だったりするのだろうか。

 いやいや、そんなまさか。そんなバカげた話があるものか、と思い直し彼女はぷるぷると首を横に振る。アレは架空の物語であり虚構だ、現実に起きるはずがない。……そうであってほしいが、夜の東京から真昼の草原地帯へ瞬間的に移動する、という不可解な事実がそれを許さなかった。

 どうしてこんなことになった。

 なぜ、自分がこのような目に。

 考えても詮無きことだと理解はしても納得などできない。なんたる屈辱であり理不尽だ、あまりにも。彼女は唇を血が滲むほど強く噛み締め、指先が白くなるまでぎゅっと拳を握る。

 架音は安穏とした気怠い日常を大切にしていた。受験勉強や学生生活でのしかかるストレスは確かに辛くない訳ではない。しかし、怪我や病気もなく家族も無事で過ごせる「当たり前の」毎日が、尊く得難いものなのだと知っている以上、優先すべきは理想フィクションよりもリアルだった。

 であればこそ、ここが異世界であろうとそうでなかろうと、やるべきことは「おうちにかえる」のひとつだけ。

 とはいえ、今の彼女はあまりにも無力だ。財布の中身はお札もなく小銭が少しあるだけ。日頃、昼食代も電車賃も全てキャッシュレス決済で賄っていて現金を持たない生活だったのが悔やまれる。

 愛用のスマートフォンも圏外表示で、地図アプリは見れずインターネットへの接続も不可能。検索の手段は何もなく、ここがどこかを知るにはひたすら徒歩で進む以外に方法はない。

 唯一の救いは鞄の中に菓子パンとお菓子を飲みかけのお茶と一緒に入れたままでいたことくらい。ただ、それもいつまで保つかは不明だが。

 家を出る前、歩き回る羽目になるとは予想もしていなかったがスニーカーを履いてきていて良かったと胸を撫で下ろす。とりあえず靴擦れの不安はない。

 読んでいる途中だった文庫本を持ってこれなかったのだけが残念でならないけれど、無事に帰宅できれば続きが読めるだろう。本当に帰れるのか不明なことに目を瞑れば。

 この先どうなるのか不安はある。未知のものに対する恐怖も。それでも架音は無理やりに気持ちを切り替え、行動してみようと決めた。──それが最悪の事態を招く「引き金」になるとはまだ、露ほども思わずに。



◆◆◆



 ──1933年 シュバルツベルン郊外「ミネルヴァの暗き森」


 ぐおおおおお、と獣の如き鳴き声を轟かせながら、すさまじい形相のセージは師匠であるはずのローズマリーへ向かって突進する。そこに理性や知性は僅かにも感じられない。


「落ち着きなさい、セージ! 正気に戻れ! 自分が何者か、思い出すのよ!」


 必死になって呼びかけつつローズマリーは相手から目線を逸らさずに後退し、リビングダイニングと地続きになっているキッチンから彼を遠ざけることを試みる。

 キッチンはまだ半人前の彼には触らせられない危ない試薬が置かれており、薬庫代わりになっているためできるだけ離す必要があった。普段は言い聞かせておけばいいが今は非常時だ、会話による説得は難しい。ローズマリーを八つ裂きにして薬庫を荒らしかねない。それだけは避けなければ。

 ぐるる……、と低く唸る彼の変容は明らかに異常だ。浅黒い肌も真っ赤に染まる瞳も本来セージが持つ色彩とは別物であるし、極めつけは背中に生えた大きな翼と額から伸びる一本角だ。魔族の一部にそのような身体的特徴を持つ種があると聞いたことはあるが、他でもないセージが突然魔族化するとは考えにくい。

 こんなの、まるで「オーガ」のようではないか。


「……そうか、鬼。お前の症状は『オグル化現象』ね。呪いの影響による転変、つまりセージ、あなたは『呪われた』のね。……誰によるものなのかは分からないけど」


 呪詛転変、という特殊環境下でしか発現しない症状がある。名の通り誰かに呪いをかけられ、姿や種族が変わってしまうものだ。

 おとぎ話に出てくる蛙にされた王子様がその一例として分かりやすい。多くはいくつかの条件をクリアすることで解呪がなされ、蛙にされた王子なら姫のキスで元に戻れるなどの、動作あるいは儀式が解呪の条件として紐付けされている。

 セージの変容もまさにそれに当てはまる。だが腑に落ちない。

 呪詛転変は基本的に報復行為として実行されることが多いが、セージは誰かに迷惑をかけてなどいないし何も悪さをしていない。呪詛転変などという高リスク高コストな魔法を仕掛けられたりするだろうか。

 まして、無害な蛙ではなくあらゆる種を傷つける可能性のあるオーガなんて生き物に変化させるなど、いくら復讐だとしても常軌を逸しているとしか思えない。つまりこれは、無差別型の呪いなのではなかろうか。


「……、ハァ? ってことは、私の可愛い愛弟子をオーガに変えたくせに、理由なんかない、だってぇ? 巫山戯るな……巫山戯るなよ……! どこの誰だか知らないが、ミネルヴァの魔女に喧嘩を売るってのはどういうことか、思い知らせてやる!」


 カッ、と魔女の瞳に瞋恚と闘志が灯る。エメラルドのように濃く深い緑の眼が眩い燐光を放つ。比喩ではなく実際に、彼女の目は輝いていた。それこそが、魔女が魔法を操る時の予備動作である。

 弟子たるセージすら目にした機会がない、魔女ローズマリーの本気だった。


『ミネルヴァの魔女の名において、我がしもべたる者へと命ず。我に──したがえ』


 それは先ほど森でセージが使ったとのとは比較にもならない、強大極まりない言霊の魔法だった。力ある者が魔力を全霊に込めた言葉を放てば、力なき者は屈服し隷属せざるを得なくなる。ある意味では呪詛転変などより余程危険で恐ろしい魔法。

 オーガと化し、目の前の生き物が大事な師匠であるというのも分からなくなっているセージだったが、これには従うしかなかった。ぎゃおおおと悶え叫びながら跪き、床の上へ頭を垂れる。ばさばさとはためく革の翼が叛意を示していた。

 ……だがしかし、どれほど強い魔法で無理やり抑えつけても結局は時間稼ぎにしかならない。一刻も早く対処療法を見つけ、しかるのちに呪いを解かねば、彼はいつまでもこのままだ。それはセージの輝かしい未来が絶たれるということを意味する。師としてそんなのは許容できるわけがない。


「くっ……何か、何か他に方法は……せめて解呪の条件が見つかるまででいい、その間だけでも理性が戻るにはどうすれば……考えろ、しっかりしろ! 私はこの森を継いだ『ミネルヴァの魔女』でしょうが! ……待て、ミネルヴァ?」


 ここは「原初の魔女・ミネルヴァ」が拓いたことに由来して名付けられた森だ。この世界に「魔法」という黎明を齎し、あまねく種族に文明と文化を与えたもうた魔女ミネルヴァは、魔法を使う者たち全てに神の如き存在として今も篤い尊敬と信仰を受けている。

 この森を守る魔女は、すなわちミネルヴァと同格の魔法使いと認められたに等しい。だからこそ「ミネルヴァの魔女」と称されるのだから。そんな「ミネルヴァの暗き森」にしか育たぬ薬草が、確かにあったではないか。


「千年草……。あれさえ使えば……、時間がない以上、さすがに出し惜しみなんてしてられないわね……!」


 魔法でセージを縛り付けたまま彼女は細心の注意を払って家の外へ飛び出し、畑に植わったままの千年草をぶちぶちと引っこ抜く。陽射しの下、パールのように光り輝く真っ白い実をつけた草を土も落とさず握り込む。

 全速力でそのまま再び屋内へ戻るやいなや、床上でぶるぶる震えるセージの顎を引っ掴み、片手に持った千年草を口の中へ突っ込んだ。


「………………届けぇぇぇぇ!!!!!」


 これでダメなら、もう潔く首を落とすしかあるまいな、と覚悟しながら。

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