龍王山にて

 住職に一礼すると、久秀はさっさと供回りに支度をさせて寺を後にしてしまった。小七郎たちは急いで久秀の後を追った。厚い雨雲のせいで周囲はすでに薄暗くなっている。


「お待ちあれ。手勢も連れず、このわずかな人数だけで夜の山中へ向かうおつもりか」


「大勢で行っては鬼火も出まい。古来、妖魅の類いは大勢の前には現れぬものじゃ。それに見よ、小雨が降ってきた。じゃんじゃん火は雨の夜によく出るというではないか」


「本当にじゃんじゃん火が出たらどうなさる。危のうございますぞ」


「そのときはほれ、小七郎どのに南無阿弥陀仏を唱えて斬ってもらえばよかろう」


 絶句する小七郎をよそに、久秀は楽しげに道を進んだ。


 藤丸を先頭に、一行は龍王山の森の中を歩いた。山道から外れ、傾斜のきつい獣道を行く。夜のとばりが視界を覆い、ぽつぽつと冷たい雫が肌を粟立たせるようになった。四面を木々に囲まれた草道を進むうち、小七郎は人の世のことわりを離れた世界に足を踏み入れた心地になった。久秀は花見のときと変わらぬ様子で、松明をかざして微笑している。


「見よ小七郎どの、野生の山桜じゃ。これはこれでおもむきがあるのう」


 炎に照らし出された枝垂れ桜は、血にまみれた無数の手のようにも映った。


「霜台どのは鬼火が恐ろしくないのですか」


 小七郎の問いかけに、久秀は答えた。


「恐れるとは道理のわからぬものを前にしたときの言葉じゃ。日触、地揺るぎ、箒星ほうきぼし。どう扱えばよいかわからぬものを人は恐れる。天地の道理を学んでおればさして恐れるものではないよ」


「では霜台どのは、じゃんじゃん火の道理も看破されていると」


「知己に果心かしんという外法の僧がおる。そやつから物の怪の道理というものをいくらか教わったものでな」


 言いつつ、久秀は従者に指図して、布に包まれた長柄物を取り出させた。従者が布の内側にある轆轤ろくろを回すと、木の骨子に張られた布が、長柄の頂点を中心に円状に展開していく。近頃都で使われ出したという、開閉するからくりを備えた大きな傘らしい。


「晴れれば野点のだて(屋外の茶会のこと)も良いかと思うて持ってきたが、なんでも備えておくものじゃな」


 久秀が小七郎に手招きする。二人は傘の下で、従者の用意した床几にそれぞれ腰かけた。藤丸がじゃんじゃん火を見たという場所はすぐ近くだ。ここで座って出現を待とうということだろう。松明の炎は消され、一行は山の闇に包まれた。


「しかし……今宵、じゃんじゃん火は現れるでしょうか」


「現れるであろう。実りの春じゃ。この機に出ないはずがない」


「はあ」


 相槌を打ってはみたものの、小七郎には意味がわからない。


「それがしにわかるように話してくれませぬか」


「では一つ教えて進ぜよう。実はな、十市遠忠を殺めたのはわしではない」


 ますます意味がわからなくなり、小七郎は首をひねった。ならば遠忠は誰に攻め滅ぼされたというのか。


「遠忠とは歌を送り合う仲であった。戦などとんでもない、あやつは病で身罷みまかったのじゃ。それに此度倅が祝言を挙げる相手は遠忠の孫娘。恨まれる筋合いなどありはせぬ」


「では、恨みでさまよう鬼火というのは……」


「そもそも龍王山城で大がかりな戦など起きたことはない。武者の怨念などいるはずがあるまいて」


 驚きの声をあげようとした小七郎に久秀が目配せした。

 久秀の目線の先、木々の向こうに炎がいくつもゆらめいていた。


 じゃんじゃん火が出現していた。


 声を押し殺して、小七郎は炎を見つめた。幽世から現れたかのような青白い色彩の炎の向こうに、餓鬼のように痩せ細った亡者の顔が照らし出されていた。藤丸の話の通りだ。

 どうする。隠れるか、いったんここから離れるか。小七郎は久秀に視線を向けた。鬼火の道理がわかっているというこの老人はどう対処するつもりなのか。


「ほーい、ほい」


 久秀は手を振り、じゃんじゃん火に声をかけた。唖然とした小七郎と、声に振り向いた亡者の目が合った。急に火の玉が増え、小さな火の玉がせわしなく動く。その動きにどこか見覚えがある気がして、小七郎はとっさに傘の柄をつかみ、持ち上げた。槍さばきの要領で脇に抱え、そのまま傘の先端を前方に突き出す。ほぼ同時に、空気を切り裂く音と共に鬼火が飛来した。火の玉が傘に突き刺さるが、傘には油紙ではなく不燃性の布を張り付けていたようで、燃え広がることはない。勢いのまま、何本かの矢じりが傘の布を突き破って止まった。先端には青い炎の残骸がくすぶっている。


 やはり。どこかで見たことがあると思ったが、あの火の玉の動きは火矢を射る前の動作だったか。戦場で積み重ねた経験が小七郎に判断力を与え、冷静さを取り戻させていた。そのまま傘を盾に移動して、供回りの者たちに指図して各々手近な木陰に身を隠させた。


 小さな炎は火矢、大きな炎は松明だったのだろう。とすれば、相手の人数は二十を超える。こちらで戦える者は小七郎くらいだ。さすがに一人で相手取るのは厳しい。


 じゃん、じゃんと音がする。戦場で聞き慣れた、甲冑の金具がこすれる音だ。青い松明を持った亡者たちが遠巻きに自分たちを取り囲み、逃げ道をなくそうとしているのがわかった。


 五感を研ぎ澄ませて活路を探る小七郎の鼻元に、腐臭が漂った。この臭いは嗅いだことがある。あれは確か、金ヶ崎かねがさきで肩に矢を受け、湯治に行ったとき……。


硫黄いおうじゃな」


 記憶を探り当てる前に、久秀の声が正解を教えてくれた。久秀も近くの木陰で身を隠し、周囲の様子を伺っていた。


「硫黄は燃やすと青い炎を灯す。山なりに相当南下せねば採れんから、この辺りの者たちが知らぬのも無理はない。牢人の死骸に虫がたかっておったのも、大方連中と揉み合ったときに濡れた硫黄がこびりつき、腐臭に水虻みずあぶが群がったのであろう」


 じゃん、じゃんと音がして、足音がだんだん近づいてくるのがわかった。小七郎たちを包囲する輪が完成し、だんだんと窄められているのがわかる。残っている手立ては、突進して輪の一部を食い破り、そのまま逃げることだ。しかし無防備な背に火矢を射かけられれば、大半の者は命を落とすだろう。


 だが、他に手はない。足に力をためて跳び出す態勢に入ろうとしたとき、輪の外から女の悲鳴が聞こえた。


「藤丸」


 離れた木陰から藤丸が顔をのぞかせるのが見えた。その顔は驚愕に歪んでいる。


「母さま」


 馬鹿な。藤丸の母親は死んだのではなかったか。今自分たちを取り囲んでいるのは、本当に地獄からやってきた亡者たちなのか。


 輪が狭まり、松明を持つ者たちの顔が見えてきた。みすぼらしい衣服に痩せた顔をした貧相な者たちの背後に、具足をまとった屈強な男たちの姿が垣間見えた。


「藤丸、なしてここに」


 前方に立つ貧相な者たちの中にいた女が、藤丸に問いかける。唇をわななかせる藤丸の顔色から察するに、藤丸の母親で間違いないだろう。


「母さまこそ、なぜこのような者たちと共にいるのです」


 藤丸が問いかける。そうしている間にも、少しずつ輪が狭まっている。


「滝つぼに落ちた後、この人たちに拾われたんよ。死にたくなきゃ手足んなって働けと」


 そこまでにしておけ、と藤丸の母の背後にいる男が低い声でつぶやいた。鼻から口元にかけて布で覆っており、面相は伺い知れない。


「おぬしらは何者なのだ。答えよ」


 小七郎の怒号にひるみもせず、男は無言で弓に矢をつがえた。その所作に合わせて周囲の者たちも矢をつがえたところを見ると、この男が頭領なのだろう。


 もはや輪は全容が見えるほど狭まっており、応戦にせよ逃走にせよ、如何ともしがたい。小七郎は刀の柄に手をかけたまま、相手の出方を伺った。

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