第269話 俺はドMメイドさんを心配したい
「その頬の傷、大丈夫ですか?」
忘却という道を選んだことで、全てが丸く納まった今日の事件。その帰り道、俺はセリーヌさんが運転する車に揺られながら、そんな質問をした。
運転席に座るセリーヌさんの頬には、ガラスで切れたような傷がついていたのだ。外国人なだけあって、日本人とは違う真っ白な肌には、その傷が余計に目立ってしまっている。
俺を助けるためにこんな怪我をさせてしまったと思うと、謝っても謝りきれなかった。
だが、セリーヌさんはミラーでこちらをチラ見しながら、何食わぬ顔で「あ、この傷ですか?」とはにかんだように笑う。
「実は、関ヶ谷様を助けに来た時に、一度入る家を間違えてしまって……。お隣の家の窓を割った時に付いた傷なんですよ」
「え、大丈夫だったんですか?」
「修理代は置いておいたので、問題ありませんよ」
果たしてそれが問題ないと言えるのか。ものを壊した時に、それを治すためのお金を出したところで許されないのが倫理というものだ。
テセウスの船という話を知っていれば、理解しやすい話だと思う。今回は窓だから問題ないかもしれないが、文化財なんかを壊したりすれば、それはたとえ修復ができても存在的な文化や歴史はそこで一度途切れてしまうのだから。
同じように見えて、同じものには戻らない。途切れてしまった恋愛関係みたいに複雑な話だ。
「傷、残りそうですか?」
「……関ヶ谷様、私の顔のことを心配してくださってるんですね」
ミラー越しの瞳が少し細められる。嬉しそうなセリーヌさんの表情に、俺は少し恥ずかしさを覚えた。
「そ、そりゃ、顔に傷をつけるなんて罪悪感がすごくて……」
薫先生の時もそうだが、やっぱり女性の顔に一生残る傷を負わせてしまうことに、俺はすごく恐怖を覚えているらしい。
怪我をさせてはいけないのは性別に構わず当たり前だが、やっぱり世間体的な何かが心の中に植え付けられているのだろうか。
「安心してください、こんな傷は雲母お嬢様の
「……遠慮しときます」
きっと、セリーヌさんなりのジョークだよな?俺を励まそうと、あえてこんなおかしなことを言っているに違いない。
彼女の隣の助手席で、黒いオーラを放っている雲母さんが、あのアイドルスマイルでそんなことをするはずがないのだから……。
「セリーヌ、帰ったら地下牢に来なさい。少しお話がありますから……ね?」
指をパキパキ鳴らしてるけど、きっと気のせいだ。アイドルがそんなことをするはずがない。してたとしても、俺は何も知らない……。
隣に座っている早苗は、雲母さんのオーラに反応して小刻みに震えていた。俺がそっと手を握ってやると、震えは少しだけ落ち着いた。
そんな彼女とは相対的に、運転席に座るドMメイドが嬉しそうに頬を赤らめていたことは、俺の心の中だけに留めておくとしよう。
この主人とメイドは、絶対に需要と供給、ギブアンドテイクな関係じゃない。そうだとしても、俺はその世界を知らない……。
そっと心に蓋をした。
その日の夜。風呂から上がったところで、着替えと一緒にカゴに入れていたスマホに電話がかかってきた。
軽めに体を拭いてから手に取って確認すると、発信主は千鶴だ。この時間にわざわざということは、おそらく旅行の話だろう。
実は、最後に相談した日から何も決まってないんだよな。行先も日付も。そろそろ決めておかないと、他の用事と被ってしまう。
「おお、千鶴。どうした?」
『碧斗、こんな時間にごめん。旅行のことなんだけどさ……』
スピーカーから聞こえてくる声に、俺は『やっぱりな』と心の中でつぶやく。
『行きたい場所、見つけたんだけど……碧斗に確認しておきたいことがあってさ』
「そうか、どこなんだ?」
俺がそう聞くと、向こう側から深呼吸をするような音が聞こえてきた。そんな口にするのに勇気がいる場所なのか?
そんな俺の予想は、少しだけ当たっていた。
『い、
何時草旅館、それは全国でも有数の天然温泉を引いた温泉旅館だ。なんでも、入れば入るほど肌が若くなっていき、あの温泉には
そういう話を聞くと、確かめてみたくなるのが人間というものだ。俺もいつかは行ってみたいと思っていた場所である。
「でも、あそこって高いんだろ?高校生じゃ無理なんじゃ……」
そう、源泉を引いていることや、若返りの効能、あとは旅館の質の高さが理由で、何時草旅館の宿泊代はべらぼうに高い。高校生どころか、一般的なサラリーマンでも無理だと断念するレベルだ。
そんな場所に行きたいと思うのは分かるが、これは心苦しくも断らざるを得ない……と、俺は思っていた。
だが、電話の向こうの千鶴は得意げに笑う。
『実は母さんがあそこの宿泊ペアチケットを、福引で当てたらしいんだ。でも、忙しいから行けないって言ってて……誘える相手がいるならくれるって言ってるんだよ』
なるほど……千鶴の母親は豪運なのに気の毒だな。まあ、千鶴のために頑張って働いてくれてるってのは本人もわかってると思うし、無駄にするのもそれはそれで失礼か。
「まあ、こういうのって普通男女で行くもんだろうけど……」
千鶴の母さんも、おそらくそういうつもりで言ったんじゃないだろうか。温泉だから少し悩みどころではあるが……。
『ああ、その事なんだけどさ……』
俺の呟きに、千鶴の声のトーンが少し落ちる。見える訳では無いが、なんだかモジモジしている姿が頭に浮かんだ。
『このペアチケット、カップル・夫婦専用なんだよね』
「…………ん?」
待てよ、カップル・夫婦専用ってことは、魔法少女アニメ的に言うと『僕と契約して魔法少女になってよ』と言われて頷いた関係の男女ってことだよな?
いや、別に魔法少女アニメ的に言う必要は無いけど、ニュアンスは伝わってくれていると思うからよしとしよう。
だが、このニュアンスで理解するとなれば、千鶴はキュ○べえでも魔法少女でもなくて、一方俺は
色々とややこしい言い回しのせいで分かりづらいが、一言で言えば俺と千鶴はカップルじゃないから、このチケットは使えないってことだ。
RINEで送られてきた画像に写るチケットにも、『カップル・夫婦でない方は、このチケットでの宿泊契約は出来ません』と書いてある。
そう、出来ないのだ。……正攻法では。
『碧斗、私と契約してカップルになってよ』
スピーカーから聞こえてくる、女の子と勘違いしてしまいそうな可愛らしい声。
「いや、順序的にカップルになってから宿泊の契約だろ」
そんなマジレスを千鶴はケラケラと笑って、それでもすぐ真剣な声色に戻った。
『宿泊する日だけでいいから……お願い!』
「でも、バレたらどうするんだ?温泉だって、さすがに女湯に入る訳には行かないだろ?」
『それなら大丈夫だよ。このチケットで宿泊すると、深夜に1時間限定で貸切の時間が用意されてるみたいだから』
「何から何まで都合が良すぎるな……」
バレたらどうするんだ?と言ったものの、正直心配なのは温泉だけだった。服を着てウイッグをつければ、千鶴は胸の貧しい女の子にしか見えない。
最後の心配が消えた以上、カップルを演じるのは容易いことになった。
「旅館の人には悪いが……こんな機会じゃないと行けないからな。千鶴の母さんの厚意に甘えさせてもらうか」
俺がため息混じりにそう言うと、千鶴は電話の向こうで大喜びし始める。俺の方が得してるってのに、そんなに喜ばれるとよく分からなくなるな……。
でも、嬉しそうにされて悪い気はするはずがなかった。せっかくの旅行だ、俺もめいっぱい楽しませてもらうとしよう。
そう心に決めて、電話を切った。
チケットの都合上、出発は2日後の朝に決まった。笹倉と早苗にも話しておかないとな。
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