第211話 俺はお姉さんのお母さんにRe:謝りたい

「ど、どうしよ……」

 小麦さんが出ていってから数分後、先に声を発したのは麦さんだった。

 あの雰囲気は絶対に怒っていたもんな。今更どうこうしてなかったことになるはずもないし、麦さんが震えているのも頷ける。

「ごめんね、私がいきなり言っちゃったから……」

 彼女はそう言って潤んだ瞳をこちらに向けるが、俺はそれに対して首を横に振った。

「いえ、俺が上手く話を誘導出来なかったのが悪いんです」

 麦さんは困っている俺を助けてくれただけで、何も失敗はしていない。そもそも、こんな大事な話に何の準備をしてこなかった俺が悪いのだ。

 あんな質問が飛んでくることくらい、十分予想できたはずなのに……。

「……俺、もう一度謝ってきます」

「私も……!」

 俺に続いて立ち上がろうとする麦さんを、「俺一人で行きますから」と座り直させる。

 もしも二度目の謝罪が失敗した時、そこに麦さんがいれば、2人の親子関係には更に深く亀裂が入るだろう。

 だからここは俺がもう一度チャレンジして、ダメだった時は気の済むまで蹴るでも殴るでもしてもらおう。それで二人の仲が元通りになるなら、傷の一つや二つお安いもんだ。


 俺はリビングから出ると、食器の洗う音のするキッチンへと向かう。小麦さんはきっとこの中にいるだろう。

 俺は二度深呼吸をすると、意を決して中に飛び込んだ。そして小麦さんがこちらに気付くよりも先に、床にベッタリと額をつけ、滑り込むように土下座をする。

「嘘をついて、申し訳ありませんでした!」

 摩擦でおでこが少し痛いが、今はそんなことは気にしない。ひたすらに床とゼロ距離で謝罪の意を示した。……が。


 バリッ!


 激しい音が耳元で聞こえ、恐る恐る顔を上げてみると、俺の顔スレスレの床に包丁が突き刺さっていた。

「……え……えぇ……!?」

 こ、殺される!?殴る蹴るは了承したが、刺すは聞いてないぞ!?

 命の危険を感じ、頭は咄嗟にその場から逃げ出そうとするが、足が震えて立ち上がれない。俺はロボット映画の最終回で負けそうになった主人公ばりに、『動け、動けぇぇぇぇ!』と心の中で念じた。

 もちろんこれは現実なので、アニメのようなご都合主義で動くようにはならない。

 視界に映らない場所で、小麦の体が動く気配を感じ、俺はもうダメだ!と目を瞑った。


 …………だが、いつまで経っても攻撃の第2波が訪れない。固まったままの首を何とか解して上向きにすると、そこには涙を流している小麦さんの姿があった。

「ど、どうしたんですか!?」

 俺は慌てて立ち上がると、泣き崩れそうな彼女の体を支え、近くの椅子へ座らせる。どうやらもう攻撃の意思はないらしい。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 誰に向けてなのか、ずっと謝り続ける小麦さんの背中を撫でながら、俺は彼女が泣き止むのを待つことにした。


 五分ほどが経ち、小麦さんもようやく落ち着いてきた。

「もう大丈夫ですか?」

「ええ、変なところを見せちゃってごめんなさいね」

 思いっきり泣いたおかげか、先程よりも顔色が良くなっており、声のトーンも少し戻ったように感じる。

 今なら聞いても大丈夫なんじゃないだろうか。

「俺の謝罪、そんなに嫌でした?」

 突き刺さったままの包丁を指さしながら聞くと、小麦さんは忘れていたと言わんばかりに「ああ……!」と手を打った。

「あれは手から滑り落ちちゃったのよ。あなたが嫌で刺そうとしたわけじゃないから安心して」

 そう言って包丁を抜いて流し台に入れる彼女。「刺さらなくて良かった良かった」と笑っているが、こちらからするとガチの恐怖だったんだよな……。

 横見たら包丁刺さってたんだぞ?グサッ、チラッ、ドギッだからな?もう一度これを体験するくらいなら、全裸のおじさん100人と鬼ごっこする方がマシかもしれない。……いや、そんなこともないか。


 小麦さんはそのままついでにお茶をコップに注ぐと、片方を俺に手渡してくれる。もう一度椅子に腰かけて一口飲み、溜息をついてから口を開いた。

「私、気づいていたのよ。麦が嘘をついてるって」

「……え?」

 俺は驚きのあまり目を見開いた。

「じゃあ、どうして部屋を出て行っちゃったんですか?」

「それは……」

 小麦さんは恥ずかしいのか、少し頬を赤くする。

「私、ずっと早く結婚しなさいってあの子に言ってきたのよ。お見合いまで持ってきて、でもあの子はそれを拒んで……」

 これは俺も聞いた話だな。知らない人と結婚するのが嫌だから、俺を偽彼氏にしたんだったか。

「私、あの子に嘘をつかせてしまうまで追い込んだのかと思うと、申し訳なくて……」

「そういうことだったんですか……」

 さっきの『ごめんなさい』は麦さんに向けて言っていたのか。無理に結婚させようとしてごめんなさい……と。

「じゃあ、麦さんの結婚は……?」

 俺が確かめるようにそう聞くと、小麦さんは目に溜まった涙をふき取って笑顔で答えた。

「もう少し待ってみようと思うわ」



 その後、小麦さんは全てを麦さんに話し、2人は元通りの仲良し親子に戻った。こんなハッピーエンドになるなら、グサッ、チラッ、ドギッになった甲斐もあったな。

 そして全てが解決した帰り際、麦さんが店に戻る準備をしている間に、俺はふと気になったことを小麦さんに聞いてみる。

「麦さんが嘘をついてるのを知ってたって言いましたけど、いつから分かってたんですか?」

 その質問に小麦さんは少し考える素振りを見せた。だが、おそらく初めから答えは喉元まで出ていたのだろう。俺の肩に手を置くと、少し意地悪な笑顔を浮かべて答えた。

「麦からあなたの名前を聞いた時よ」

「……え?」

 俺の名前を聞いただけで嘘を見抜けるって、どこかの特殊能力か?一瞬そう思ったが、どうやら違うらしい。

「関ヶ谷 碧斗……。まだ麦が高校生だった時、その名前の子の話をよく聞いていたのよ」

「俺の話を……?」

 俺の問い返しに、小麦さんはゆっくりと頷く。

「『今日も来てくれた』、『学校の話を聞かせてくれた』って、いつも嬉しそうに話してたわ」

 思い出すと少し恥ずかしい思い出だ。麦さんと話すために通っていたけれど、そっちがメインだと思われたくなくてパンひとつ分の代金を握りしめて行ってたんだから。

「でもね、あなたが買いに来なくなってから麦は落ち込んでしまったの。パン屋を継ぎたくないって言い出したのも、それと同じ時期だったわ」

「……」

 俺は思わず黙ってしまう。麦さんと久しぶりに会ったあの日、俺の目に彼女は何も変わっていないように映った。

 でも、俺の知らないところで、俺は麦さんの密かな『頑張る理由』になれていたのかもしれない。そう思うと、ぱったりと通わなくなったことがすごく申し訳なく感じた。

「私、ずっとあなたのためにパン屋を続けていたのよ」

「俺のために?」

「ええ、あなたがまた来たくなった時、ここが別の店になってたら悲しいでしょ?」

 ……確かに、それはすごく悲しい。昔馴染みのものが無くなるって、意外と辛いことなのだ。

「あなたがまたパンを買いに来たら、無理にでも捕まえて麦に会わせてあげようと思っていたけど……」

 小麦さんはクスッと笑うと、玄関の扉を指差して言った。

「まさか、そっちから入ってくることになるとは、思ってもみなかったわね」

「確かにそうですね」

 彼女の言葉に、思わず笑いが溢れてしまう。パンを買いに来るかと思っていたら娘を貰いに……なんて、飛んだどんでん返しだもんな。

 まあ、結局嘘だったわけだけど。

「碧斗君、お待たせ!」

 どこかすっきりとした表情の麦さんが、準備を終えてリビングから出てきた。

「それじゃあ、お邪魔しました」

「お母さん、行ってきます!」

 俺達は小麦さんに頭を下げてから玄関の扉を開く。

「パンか麦が欲しくなったら、いつでも遊びに来るのよ」

「ええ、今度は反対側から入りますね」

 遠回しに嫁入りはお断りして、俺は麦さんと一緒に店へと戻った。


 こうして麦さんとの偽恋人関係は終わりを迎えたのだった。

 S氏はこれについて、「余計なハエが1匹消えて良かった」とコメントを残したんだとか。

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