第39話 〜事象の地平で存在の唄を唄う者〜
賢者ユリウス・ハインリヒ・クラプロスは目を閉じて意識を集中した。
メナスの手の平の上で輝きを放つ【賢者の石】に精神の一部を同期させるために。
次に目を開けた時… 彼の眼前には見渡す限りに続く広大な図書館が広がっていた。
天井も床も… 身長よりもはるかに高く階段のように複雑に折り重なっている書架さえも、全てが純白に包まれている。
それでいてなぜか光を全く反射しないので、たとえば天井がどこまで高いのか見当さえつかない。
信じられない事に、見渡す限り地平線の果てまでこの光景は広がっているのだ。
ここは【賢者の石】の中だった。
と言っても、もちろん現実の場所として存在している訳ではない。
哲学者、宗教家、魔術師、錬金術師、科学者、果ては質問責めで親を閉口させる三歳の幼な子まで、全ての求道者が目指す究極の先【森羅万象ありとあるゆる全ての問いに対する答え】…
…それこそが【賢者の石】の正体である。
つまりここには【この世の全ての答え】があるのだ。
それは【アカシック・レコード】と呼ばれている物と同一の存在だった。
それだけではない【エメラルド・タブレット】【聖杯】【
呼び名は違えど全ては同じ存在…
その存在の一部を切り取って、自らの理解出来る範囲で形を与え、そう名付けたモノに過ぎない。
つまりユリウスたち三賢人には、そこは巨大な図書館として認識されていた… という事なのだ。
考えても見て欲しい… ここには全ての答えがある。 しかしここは、おそらく現実の地球よりも広大な空間で、求める情報がどこにあるのかも分からない…
ここには【全知全能】があるが、それを引き出し使いこなす事は定命の人間にはおよそ不可能なのだ。
しかしユリウスも、無策でここに訪れた訳ではない。
今回は『
ユリウスは小さな【白い本】を小脇に抱えていた。 ここは現実の空間ではない。
従ってこの本も現実の本ではない。
それは… あの憐れな少女の【遺骨】であった。
この本を辿って行けば、そう時間もかからずに目的の物が見つかるだろう。 もっとも、この空間では外の世界と時間の流れがそもそも違うのだが…
ユリウスは、メインストリートと呼ぶべき中央の太い廊下を歩き出した。
目指す方向はこの本が教えてくれる筈だ。
文字通り、彼女自身が…
歩けど歩けど景色に変化はなかった。
ここの体感時間で、もう10分も歩いたろうか…
ふとユリウスは立ち止まった。
決して
間違いない… ここだ…
ユリウスの背筋に冷たい汗が流れ落ちる。
この先に… 7年前、三賢人が訪れて、そしてあの悲劇を巻き起こした場所がある…
すなわち【
ユリウスはその通路へは一顧だにせず、そのまま真っ直ぐ歩き出した。
もう二度とあの場所を訪れる事はあるまい!
さらに10数分ほど進んだ所で、彼は異変に気がついた。
と言っても、目的地に着いた訳でもなければ、とくに景色に変化があった訳でもない。
どこからか微かに鼻歌のような物が聴こえてくるのだ…
それは楽しげで… それでいてどこか寂しげにもにも聴こえる不思議な唄だった。
この空間は、言わばユリウスのイメージした仮想空間である… ユリウス以外の誰かが存在する道理がない… では一体誰がこの唄を唄っているのか……
不思議と恐怖はなかった。
ユリウスは好奇心に抗えず、その声のする方向へと踵を返した。
それは子供… おそらくは少女の歌声だった。 それも、ユリウスのよく知っている声に似ているような…
いくつかの通路を曲がると、やっとその少女の姿が見えた。 せまい通路の数10m先のところに書架用の梯子があって、少女はそこにちょこんと座って本を開いていた。
白いワンピース… 銀色のショートヘア…
透き通るような白い肌に、吸い込まれそうな黒い瞳…
「メナス……?」
思わずユリウスは声をかけてしまう。
少女は唄をやめて顔を上げた。
その瞳がユリウスを認めて微かな笑みをたたえる。
「いらっしゃいませ、マスター」
「お、お前なのか… メナス?」
少女は膝の上で開いていた大きな書物をそっと閉じた。
「いえ、そうですけど… そうではありません…」
「……?」
「いつかいらっしゃると思ってお待ちしておりましたが… 思ったよりもずっと早かったですね…」
「オレを… 待っていた…?」
「はい…
「…⁈」
「私はここで…
「『
「はい… いつかマスターのお役に立てる日のために…」
(そうか… アイツそんなコトしてたのか…)
「それで… お前が調べたコトは… お前の記憶は、本体のメナスにフィードバックされてるのか?」
「いえ… 必要に応じて可能ですが、最初に取り決めた必要条件には一度も達した事はありませんね…」
「そうか……」
それじゃあまるで……
こんな広大な、書架しかない白一色の空間に、たったひとりで7年間… いや、この空間は外の世界とは時間の流れが違う… この少女は、一体どれほどの時をここで孤独に過ごしたのだろうか……
「マスター、それは……?」
少女が、ユリウスが小脇に抱えていた小さな白い本に目を止めた。
「そうだ… オレは、ここに探し物に来たんだ… 手伝ってくれるか?」
「もちろんです、マスター」
少女が顔を輝かせた。
ユリウスが差し出した本を手にとって開いてみる。
「この本の少女を探している… 多分、調べ終わった蔵書目録には無いだろうが…」
少女は真剣な表情で全てのベージをめくった。 それは正確で機械的な動作だった。
「確かに、お探しの本はまだ分類してませんが… すぐに見つかると思いますよ」
「本当か⁈」
「比較的『縁』のある方の本ですからね… 『縁』を辿れば見つけるのも容易い筈です」
「『縁』…?」
「そうです… この少女は、ルシオラさんの一番のご友人ですし、三賢人失踪の捜索に加わった冒険者でもありますから…」
「ルシオラを知っているのか…?」
「はい、そちらの様子は見えてるんですよ… と言っても、初期のワンセグケータイで見るTVくらいの画質ですけど…」
「わんせぐ… 何だって…?」
「あっ… そちらには、まだありませんでしたね… スマホもパソコンも…」
「……」
「あっ 見つかりました!」
「…もうか?」
少女は椅子代わりに座っていた梯子に登ると、高い棚から二冊の本を取り出した。
梯子の上からユリウスに手渡す。
それは、シャウアの【完全な遺伝情報】と【生涯の記憶】だった。
これであの少女を【完全な形】で呼び戻す事が出来る。
「あぁ、これで間違いない… ありがとう助かったよ」
「お役に立てて良かったです…」
微笑む少女の顔は、どこか寂しげだった…
「……」
ユリウスは、3冊の本を懐に仕舞うと梯子の上の少女に向かって両手を広げた。
「おいで…」
「マスター…?」
少女が全く想定していなかった事態に戸惑いを見せた。 彼はまだ両腕を広げている。
少女はおそるおそる両手を広げて、ユリウスの胸にふわりと飛び降りた。
「永い間… 独りで寂しかったろうな… 偉かったぞ…」
「マスター…」
片手で背中を支え、もう一方の手で優しく頭を撫でてやる。
表情は見えなかったが、少女の肩が小刻みに震えていた。
「これからも会いに来るよ…」
「忙しくなりそうですものね… もちろん、お力になりますわ…」
「いや、用がなくても来るさ…」
「…⁈」
「マスターぁぁぁ……」
今度ははっきり聞こえるように、彼女は声を上げて泣き出した。
ユリウスはしばらくの間、ただ優しく少女の背中を抱いていた。
「そうだ… お前に名前を付けてやらなくちゃな…」
「名前… ですか?」
「……」
「セイレーン… なんて、どうだ?」
「セイレーン… 唄で人を惑わす魔物ですね…」
「それだけ魅力的ってコトだよ…」
「ふふふふ… マスター、女性の扱いが上手になりましたね…」
少女… セイレーンは涙を拭って花のように微笑んだ。
ユリウスが瞳を開くと、そこは【
目の前にある白磁の壺に、メナスが【賢者の石】の力で周囲から膨大な量の
その様子を、ルシオラがただ呆然と見つめていた。
彼が瞳を閉じて、再び開けるまでの間… こちらの世界では、わずか2秒しか経っていなかった…
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