田中和美のケース その2:4

 ハイパティーロと日本は、そんなに時差はないらしい。というか、一日が二四時間で、一年は太陽暦でほぼ三六五日なのだという。地球の公転周期と自転周期がどちらもほとんど変わらない、ということは、和美にも理解できた。

「ただ、気をつけて欲しいのは、こちらは日の出が一日の始まりの時間になります。つまり、和美さんの滞在一日目は、夜明けと共にカウントが始まります。今はまだゼロ日目です」

「夜明けって何時頃?」

「今の時期だと、朝の五時半くらいですね。でも、普通のお店や会社が開き始めるのは、早くて九時頃くらいからです。普段の生活と変わらないと思います」

 皿やコップを一旦片付け、来客用のテーブルに向き合うと、説明用のパンフレットらしいものを広げながらかなたが説明してくれた。サーシャは相変わらずカタカタとキーボードのようなものを操作し、ルドラは食べ足りないと茶菓子のお代わりを要求して、カウンターのサーシャのはす向かいに座って一人で食べている。

「一日目が始まるまでは、規定で和美さんはこの相談所の入っている建物から外には出られません。でも、この上に提携している宿泊施設があるので、そこで休んで頂けます。申請手続きが終わったらご案内しますね」

「あ、はい……」

「じゃあ、仮証明書を発行しちゃいましょう」

「証明書?」

「和美さんがこの相談所に保護されて、滞在許可を得ているという証明書です。日本でも、外国に行くときはビザやパスポートが必要ですよね?」

 言いながら、かなたは一枚の紙を和美に差し出した。相変わらず和美にはなじみのない文字ばかりだが、数項目が箇条書きになっている形式なのだけは判った。

「じゃあ和美さん、この文字を、指でなぞっていっていただけます? 左から右です」

「え? 読むんじゃなくてなぞる?」

「だって、読めないでしょう?」

 それはそうだけど。

 目の前に広げられた紙を眺め、目をしばたたかせた。読めない書面に署名しろ、などと言われるよりはましなのかも知れないが。

 和美は戸惑いながらも、右手の人差し指で文字の上に触れた。言われるままに指を滑らせる。

 驚いたことに、なぞるそばから書面の文字は光に姿を変えていく。それと同時に、書かれている内容――滞在中にしてはいけないこと、入れる場所、困ったときの連絡先といった決まり事が、和美の頭の中に流れ込んできた。

 そして、全ての文字をなぞり終えると、光に変わった文字は書面の中央で魔法陣と思われる模様を描いた。五〇〇円玉ほどの大きさだ。

「では、そのスタンプの上に、手の甲を押しつけてください。利き手の反対がいいと思います」

「スタンプ……?」

 雲居が、テーブルに手の甲を押しつける仕草をしてみたので、真似して紙の上に左手を置いた。手をどけると、紙は、何も書かれていないまっさらなただの紙になっていた。

 驚いて自分の手の甲を見る。

 確かにそこには光のスタンプを押したように、さっきの魔法陣が浮き上がっている。まるで、遊園地に再入場するのに押してもらうスタンプのようだ。

 ああ、魔法って、こういうものなんだ。気が抜けてしまった和美に、雲居は明るく微笑んだ。

「では、改めて和美さん、ハイパティーロ王国へようこそ!」


 雲居に案内された宿は、ハイパティーロ旅行案内所と同じ建物の、三階にあった。内部の階段で登ったが、一般の客相手にも営業しているようだ。

 建物が石造りなだけで、近代的なビジネスホテルとそう変わらない内装だ。ちゃんとフロントがあって、宿帳に自分の名前を記入した後、左手の甲にある魔法陣を、8インチタブレットくらいの大きさの鏡に押しつけたら、それで手続きは終わりだった。

「その左手の魔法陣が、お部屋の認証キーになります」

 フロントで出迎えたのは、狐らしい獣の耳を持った中年の女性だった。未成年の和美にもとても丁寧だ。ひょっとしたら、成人の概念が日本とは違うのかも知れないが。

「館内での食事や飲み物は、すべてその認証キーでご利用いただけるので、お申し付け下さい。同じ建物内に、服や雑貨のお店もありますから、そちらもぜひご利用下さい」

「は、はぁ……」

 いたれりつくせりだ。

「全部公費で落ちますから、お金のことは気にしないでくださいね。でも、国を出るときは、ゲートをくぐってきた時と同じ程度のものしか持ち出せないので、そのつもりでいてください」

 にこにこと、かなたが付け足した。

 つまり、ここで幾ら買い物をしても、おみやげとして元の世界に持ち込むことはできないらしい。

「私は一旦事務所に戻りますけど、なにかあったら内線通話機で呼んでください。左手で掴めば、魔法陣と呼応して、フロントか事務所につなぐかを通話機が自分で判断しますから」

「へぇ……」

「では、ゆっくりお休みくださいね」

 雲居に見送られ、今度はフロントの女性に案内されて、和美は四階の一人部屋に通された。

 内装も、普通のビジネスホテルと変わらないようだ。八畳ほどの部屋に、セミダブルほどの大きさのベッドと机、クローゼットが作り付けられていて、ユニットバスもついている。さすがにテレビに類するものはないが、テーブルには電話機のようなもの、時計のようなものと並んで、情報誌や新聞らしいものが置いてある。もちろん読めないが。

 窓があったので開けてみたが、見えるのは隣の建物の壁だけだ。事務所内は明るくて気づかなかったが、空は夜の黒さで、星がいくつか瞬いているのが見える。

 机の上の見取り図をみると、食堂や売店等を記号で判りやすく示してある。施設を利用するだけなら、文字が読めなくても困ることはなさそうだ。

 そういえば、字が読めないのに言葉が理解できるのはどうしてだろう。異世界召喚ネタのラノベでも、ごく普通に現地の人間と会話していることが多いけれど。

「……まぁ。魔法の国だしね」

 全ての免罪符とも言える言葉を口にして、和美はずっと持っていた本屋の紙袋を机に放り投げ、自分はベッドに寝転がった。異世界まで来て、自分はどうしてこんなものを後生大事に持っているのだろうと思いながら。

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