異世界転生して獣人になったけど、心はやっぱり腐女子です:中村綾のケース
中村綾のケース:1
<『ごめん、母親に部屋に踏み込まれた
締め切りやばい』
『えっ?』>
<『原稿やってて、電話にも出ないでいたら
会社に電話されて、休んでるのばれて
熱中症で倒れてるんじゃないかって見に来たらしい』
『ど、どうだったの?』>
<『しつこくピンポン鳴らしてたから
勧誘かと思って放置してたら
大家に鍵開けられた』
『えええええ』>
<『原稿はなんとか隠したけど
本棚にあった薄い本全部見つかった』
『あああ……』>
<『週末に父親連れてくるって
家に連れ戻されるかも
マジ死にたい』
『ちょっ、落ち着いてっ』>
※ ※ ※
「マジ死にたい……」
時刻はもうじき二二時になろうかという頃。
若い女性の一人歩きには不安な時刻だが、ジャージによれよれのTシャツ、化粧どころかシャワーすらさぼっていたせいで異様な光沢を放つ黒髪。
見るからに怪しい綾に、声をかけようと思う通行人はいないだろう。いろいろな意味で。
閉店した魚屋の前で撒かれた水の匂いをかいでいた猫が、亡霊のように歩いてくる綾に気付いて、怯えた様子で逃げ去っていった。
それも視界には入っているのだが、綾は歩調も変えずに足を進めた。
ポケットのスマホから、ひっきりなしにラインの通知音が聞こえるが、それも綾の心にまでは響かなかった。
綾は今、人生最大とも言える窮地に立たされていた。
つい数時間前まで、同人作家には夏の最重要イベントとも言える某大規模即売会に向けた新刊の為に、綾は必死で頑張っていた。
どれくらい必死だったかといえば、祖父の三回忌の為にとっていた有給を、締め切り間際の原稿の為に捧げ、親には「仕事がどうしても休めなかった」と深刻な声で謝ったほどだった。
親の死に目ならまだしも、もう死んだ人のために有給を使うより、生きた自分の為に費やした方がいいに決まっている。と自分に言い聞かせながらの渾身の演技。
世間体と節目節目の行事を大事にする両親は、なんとかならないかとぎりぎりまで電話攻勢をかけてきた。
思えば、この時点で荷物をまとめ、サークル仲間の知美の家に転がり込むべきだったかも知れない。
原稿に集中したかった綾はガラケーの電源を落とした。
元々、家族と一部のリアル知人を欺くためのガラケーだ。プライベート用のスマホは別に持っているから、サークル仲間とのやりとりも困ることはない。
煩わしい親から隔離され、綾は必死で原稿を頑張った。
そこを、折からの猛暑を口実に、母親が一人暮らしの綾の部屋に踏み込んできたのだ。
まさか、部屋まで来られると想定していなかった綾は、ドアチェーンが切られるまでの間に真っ先にデータを保存しパソコンの電源を落とした。おかげでタブレットで描いていた原稿は死守できたが、締め切り直前で偽装を怠っていた本棚とベッド周りにあった薄い本全てを母親に見られてしまった。
元中学校教師の母親は、そういうものの存在を知ってはいたものの、自分の娘が「人の道を外す」(母親談)ような本を買いあさっていることは耐えられなかったようだった。
買ってるだけじゃなく描いているだとばれたら、母はどうなってしまうのだろう。
母親の嫌悪の表情とマシンガンのような罵りの言葉を、ただ「原稿を見られなくてよかった」という思いだけで乗り切った綾だが、
「一人暮らしなど許したのが間違いだった、お父さんに報告する」
という言葉に、心の急所を撃ち抜かれてしまった。
あの父のことだ、母の大げさな報告を文字通りに受け止めれば、すぐにでも引っ越し業者を手配しかねない。
判っていたはずなのに、警戒を怠ってしまったのは、参加権が当たったことで浮かれていたのも大きいが、数年の一人暮らしで気がすっかり緩んでいたからかもしれない。
泣きながら母親が帰り、
「す、すみません、チェーンの取り替え代金は、次の家賃引き落としの時に請求させてもらいますから……」
と、おろおろしながらもちゃっかりとした発言を残し大家が去ってしまうと、嵐の後の室内に立ちすくんでいた綾は、無意識に部屋を出ていたのだ。
母が自分を引きずって連れ帰らなかったのは、締め切り直前で人外のような姿になりはてている綾を他人に見られたくなかったからだろう。激高していても、世間体に関わる判断はできるひとだ。
父を連れてくるまでが猶予期間になったのだから、その間に何らかの手を打つべき、と発想を切り替えられればよかったのだが、残っていた気力を母親に全て吸い上げられて、綾の思考は完全に停止していた。
連れ戻される。
大事なものは全て処分される。
あの両親と同じ家で暮らすなど、座敷牢にいるのと変わらない。
「マジ死にたい……」
呟く綾の目の前には、この時間でも交通量の多い表通りがあった。
片側二車線の広い道路を、大型車のヘッドライトが行き交っている。
綾はその光に魅入られたように足を止めた。
そこそこ人通りもあるが、見るからに異様な目つきの綾に気付くと、遠巻きに距離をとって通り過ぎていく。
「……もう、どうしてそんな嘘ばっかりつくの!」
エンジン音の合間を縫うように、甲高い女の声が遠くから聞こえ、綾は車道に踏み出そうとしていた足を止めた。
「パパの隣に女の人が座ってるなんて、お外でまでそんなこというのはやめてちょうだい!」
「うそなんかじゃないもん!」
ぼんやりと目を向けると、ファミリーレストランの前で、小さな女の子が母親に怒鳴り返していた。家族で食事の帰りだろうか。
しつけと称して両親から押しつけられる様々な要求に怯えていた、子どもの頃の自分を、綾はふと思いだした。
「ママこそ、どうして見えないなんていうの? あの女の人、この間うちに来た、パパのかいしゃの人でしょう? どうしてレストランまでついてくるの?」
「来るわけないでしょ! いい加減にしなさい!」
ぱちんという音に、母親は自分で驚いたようだった。振り下ろした自分の右手と、頬を押さえる自分の娘を前に、母親は動きを止めた。気付いた周囲が、何事かと足を止める。
頬を押さえて泣き出すかという周囲の予測に反して、女の子は鋭く母親を睨み付けた。
「あの女の人と仲良くするパパもだいきらい! ママもだいきらい!」
少女は力のある声でそう言い返すと、呆然と立ちすくむ母親の前から身をひるがえした。
未だ交通量の絶えない大通りに向かって。
凍りつく見物人の中で、誰よりも早く動いたのは綾だった。
何も考えられない抜け殻のような状態だったからこそ、反射的に体が動いたのかも知れない。
二車線の半ばまで飛び出した少女に追いつき、その体を抱えて、綾は歩道に戻ろうと振り返った。
同時に、急ブレーキの音と、クラクションが鳴り響いた。
大型トラックのヘッドライトが世界を白く照らし、周囲の視界から二人の姿をかき消した――
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