第六十二話【昭和天皇の戦争責任の根拠は大日本帝国憲法?】

 はははははっ! 

 ASH新聞社会部フロアに突然響く笑い声。リベラルアメリカ人支局長でも天狗騨記者でもない第三者の声。皆の視線が一斉にその声の主の方を向く。


 それは左沢政治部長だった。


 なぜか非常に得意げな顔をしている。いぶかしさを隠そうともしない表情をする天狗騨記者。

 左沢が頼まれもしないのに語り出した。

「天狗騨、お前は『昭和天皇に戦争責任が無い』と言ったがそれは完全な間違いだ」


「私は『命令一つで軍隊を自在に動かせた筈だ』という風説を否定しただけですが」天狗騨は言った。


「フン、やはり間違いだ。昭和天皇に戦争責任があるというその根拠は大日本帝国憲法にある!」そう言って左沢はまるで最終的に議論に勝ったのはこの俺だといわんばかりの顔をしてみせた。


 ここでリベラルアメリカ人支局長が口を開いた。

「つまり昭和天皇に戦争責任があるトイウ主張には法的裏付けがアル、と言うコトカ?」


「その通りです」左沢は肯いて言った。天狗騨を指さし「お前も知っている筈なのに知っていて黙っているとはたちが悪い」とさらに左沢はそう決めつけた。


「テングダ、それは本当カ?」リベラルアメリカ人支局長は殺意に近いものが籠もった視線を向けた。しかし天狗騨は左沢の方に確認を求める。

「大日本帝国憲法の中で軍絡みということは〝統帥権〟辺りの事ですか?」


「そう! 大日本帝国憲法第11条! 『天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス』だ! 軍隊の最高指揮権は天皇にあり政府・議会からも独立していた! つまり軍隊のやったことの責任は指揮権を持っている天皇にあるのだ! これで昭和天皇に戦争責任が無いなどとどうして言える⁉」


 その左沢のことばに続けてリベラルアメリカ人支局長が天狗騨を詰問した。

「知ってイテ黙っていたとシタラ人間性が問わレル問題ダゾ!」


 天狗騨は腕組みをし、少しだけ考える。やおら顔をリベラルアメリカ人支局長に向け、

「そういう問題ではありませんね。大日本帝国憲法第11条は天皇が軍隊をコントロールできた理屈とはなりません」と言い切った。


「説明を聞こうカ」憎悪をたたえつつ且つ見下すような目で天狗騨に答えを要求するリベラルアメリカ人支局長。そのあまりに露骨な態度にも意に介する様子無く語り出す天狗騨記者。

「戦前の軍部は軍を勝手に運用していました。『昭和天皇には戦争責任がある』と断定するには実際に天皇の命令で軍隊が動いていることが必須です。しかしそういうことは無いわけです」


「命令などしてなくテモ、指揮する立場ニハあったロウ! その責任ハ?」リベラルアメリカ人支局長は問い詰めた。


「答えは既に左沢さんが言っています。大日本帝国憲法第11条は〝指揮〟の問題で〝指揮〟の問題ではありません。むしろ逆に昭和天皇は〝指揮権〟という権利を軍部に侵害された被害者であると言えます」


「ふざけるなよーっ! 天狗騨ぁ!」名指しを受けた左沢政治部長が怒鳴りつけた。「指揮権の〝権〟は権利の〝権〟じゃないっ! 権限の〝権〟だ!」


「〝権限〟でもおんなじ事ですよ左沢さん、あなたの言った大日本帝国憲法11条で規定されているのは『陸海軍の統帥権の独立』、これの保証です。天皇の命令無しに軍隊は動かせないってことです。軍の指導部だろうと勝手に軍隊を動かしてはならないのです。権限の無い者が権限を勝手に行使するのは問題だとは考えませんか?」


「なッ……」と口にしたきり絶句する左沢政治部長。そして同じくリベラルアメリカ人支局長。天狗騨の言はあたかも〝無罪請負人〟と称される弁護士が法廷で述べるが如き口上だった。そしてさらにそこに天狗騨がとどめを刺した。

「天皇が命令を出していないのに軍隊を動かしたらそれは


 『憲法違反』、それは専ら現行憲法である日本国憲法に当てはめるべき概念で、大日本帝国憲法においてこれを応用するなどこの場にいる全ての人間にとっては全くの想定外だった。


「権限を勝手に行使されて処罰を与えない責任というものがあるだろう!」左沢が天狗騨の言った〝憲法違反〟に激しい反応を示した。


「では『陸軍・海軍の処罰が天皇には可能である』、という法的根拠はありますか?」天狗騨記者が逆に問い返した。左沢は固まった。答えられない。なぜなら懲罰権すら認める〝天皇親政法〟の如き法は当時の六法を1ページ目から順にめくっていってもどこにも書かれていないからである。


「詭弁ダッ! そこまで昭和天皇に責任が無いト言いタイノカッ⁉」脇からリベラルアメリカ人支局長がたまらず介入した。


「いいえ。私は単に〝大日本帝国憲法第11条〟を絶対的拠り所としたもの言いに腹が立っただけです。アメリカ人のあなたには分からないことでしょうが、戦前日本の軍部もこの〝11条〟を絶対的拠り所として利用していたんですよ」


「ナニッ⁉」


「11条に定められた『陸海軍の統帥権の独立』を条文そのままに主張し、内閣、即ち時の政府に自己の組織のための利益を認めるよう、傍若無人な要求を突きつけたのが軍部です。時の政府が少しでも軍部に気にくわないことをしようとすれば『統帥権干犯!』と言って憲法を盾に自己の主張を正当化するわけです」


 リベラルアメリカ人支局長の顔がみるみる真っ赤になる。そしてやおら左沢を睨むと、

「欠陥法を持ち出せト誰が頼んダッ! いいカラ黙ってイロ!」と怒鳴りつけた。瞬間的に縮む左沢政治部長。リベラルアメリカ人支局長としてはよもや自身が戦前の日本の軍部如きと同じ価値観を語っていたとは夢にも思ってはいなかった。それが故の怒りの爆発であった。


 改めてリベラルアメリカ人支局長が天狗騨記者を睨みつける。

「お前は『』と言ッタ! 天皇は軍部には同調セズあたかも平和主義者ダト言わんばかりではナイカ?」


「その通りです」まったく迷いなく天狗騨記者が言い切った。


「昭和天皇が平和主義者だと言うノハ戦後造られたイメージのようにシカ見えナイ! だいいちどうシテ『昭和天皇の意向』とヤラをお前が知ってイル? 知るはずがナイ!」



 囲碁や将棋の世界には〝悪手〟という業界用語がある。自分の形勢を却って悪くしてしまう自分で打った指し手のことである。


 信じたいものしか信じない、というポスト・トゥールースという巨大な壁の前で立ち往生していた天狗騨記者に、期せずして光明が差し込んでいた。それがたった今のリベラルアメリカ人支局長のことばだった。むろん天狗騨記者の口元には笑みが戻ってきた。

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