第30話 マイ・アイロン・ラング(7)
「来たか。まぁ、入れよ」
「……お、おぅ」
フレッドから適当な場所に座るよう促され、エドはおずおずとベッドに腰掛けた。視線のやり場を落ち着かせたくて、学習机正面の壁に備え付けた本棚に並ぶ、様々な種類の本の背表紙を何となしに眺めていると、あることに気付く。
「フレッド、音楽理論とかの本がなくなってるけどさ、どうしたんだよ」
「あ??音楽関係の本は全部売った」
「……は??」
ぽかんとするエドを一瞥し、フレッドは学習机の回転椅子に座った。
予想だにしなかったフレッドの言葉が信じられなくて、エドはさりげなく彼から視線を逸らした。新たな視線のやり場を探して室内をぐるりと見渡す。
整然とした室内は几帳面かつ神経質な性格を如実に表しており、彼の
窓とヘッドボードの間にある空間に、スタンドに立て掛けてあった筈のギターが一本だけになっていた。
「あぁ、ギターも。子供の頃、父さんに誕生日に貰ったエレアコ以外は売ったんだ」
「はぁああ?!」
「おい、デカい声出すな。隣から苦情がくる」
「あのカジノ・クーペも」
「売った」
「何でだよ?!どういうことだ!!」
身を乗り出してフレッドに詰め寄ったが、フレッドの顔色も表情も憎らしい程に醒めきっている。
「辞めたんだ」
「主語抜かして喋るな」
「バンドを辞めたんだ。デモ音源送った会社の社内オーディションと司書講習の日程が被っていたから。メンバーには説得されまくったさ。また来年にすればいいだろうって。でも、講習を受講するのは早いに越したことはないだろ??講習を早く受けた分だけ図書館実習も早く受けられる。あのバンドは音楽性も人間も合わなくて正直苦痛だった。抜けるチャンスができて良かった」
「だからって、何も本やギター売らなくても……」
「しばらく音楽から離れたかったんだ。俺が大学に入ったのは勉強をするためで、その本分を忘れちゃならない。ついでにアルバイトも辞めたよ」
相変わらず表情一つ変えずに淡々とフレッドは語っていたが、以前見掛けた時とは違い、薄灰の双眸には確固たる意志が宿っていた。
「何かあったのか??」
「あ??」
「ついこの間まで病人みたいな覇気のない、窶れた顔してさ、目も死んでたのに」
「あぁ……」
フレッドは横向きに姿勢を変えると、半身を回転椅子の背もたれに凭れかける。目を軽く伏せ、口元を歪めて微かに苦笑すら浮かべて。
「久しぶりに……、二カ月前くらいか??家に帰った時、母さんに近況をちらっと話したら叱責されちまって……」
「ジルさんにか??」
「『あんたが本当にやりたいことは何だったか、よく考えな。本気でプロになりたいならともかく、嫌々やってるバンドなんかのために目的見失うなんて、私は承知しないからね』ってな……」
「うわ、また、言いにくいことをハッキリと……。さすがだわー、かっけぇ」
感嘆するエドとは対照的にフレッドはムスッと不貞腐れているが、最悪の状態からは抜け出したようだ。
安心する一方、これから話すことは彼を絶望の底に突き落とすに違いない。
「ところで、俺に大事な話って何だよ」
エドから言い出すよりも先にフレッドの方から話を振ってきた。
う、と言葉を詰まらせ、どう話を切り出そうかと迷うエドの口元をフレッドはじっと見つめてくる。
「あのさ……、ナンシーさんのことだけど」
ナンシーの名を出した途端、フレッドの眉は下がり、唇がキュッと固く引き結ばれた。
「別れた」
「…………は??」
「と、いうより……、一方的に振られた、ような気がする」
くるり、椅子を回転させ、フレッドはエドに背中を向ける。
「バンドを辞めて勉強に専念するって、決めてすぐ、ナンシーに電話したんだ。でも、その時は携帯の電源切ってたみたいで留守番電話に切り替わったから、『また掛け直す』旨のメッセージだけ残して置いた」
もしかして、あの光景を目撃した時か。脳裏に嫌な予感が過ぎったが、フレッドに問い質す訳にもいかない。
悶々とするが、「それで??」と続きを促すだけに留めておいた。
「翌日、ナンシーから電話が掛かってきて話をした。そしたら」
『貴方のしたいようにすればいいんじゃないかしら??所詮は貴方の人生で私が決めることじゃないし。あぁ、そうだわ。私もね、〇〇〇楽団の入団テストの対策に専念したいから、しばらく連絡控えてくれない??今、そこの元楽団員だったピアノ講師の方から特別に集中レッスン受けているの。マクダウェル先生っていって、とてもいい先生なのよ。じゃ、もう切るわね』
「電話切られた後に何度掛け直してもその日は繋がらなかった。次の日掛け直した時も。余りしつこくしても駄目だと思って、二日くらい日を空けて掛け直したら、電話番号自体変わっていたしメールも拒否されていた」
「な……」
「つまりはそういうことさ。まぁ、入団テスト対策も集中レッスンも嘘じゃないだろうけど」
「フレッド」
「ナンシーには俺の出生や家庭環境について包み隠さず話していた。だから、全部承知の上で……」
「フレッド、もういい……、もうやめろよ……」
「〇〇〇楽団でピアノ奏者だったマクダウェルなんて、あの男を置いて他に誰がいるっていうんだ」
ピンと真っ直ぐに伸びたフレッドの背中に居たたまれなくなり、エドは徐に目を逸らす。
無感情に吐き捨てられた言葉は鉛のように重たかった。
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