第68話 依存症者の告白(68)

 パチンコで大当たりして、「やったー!」と叫んで、そのまま死んだ老人がいるという。

 そのような死に方に、私は憧れていた。ひとり狂喜乱舞の真っ只中で死ねたら、さぞ幸せだろう、最高の、これ以上ない至福の死に方ではないか、と。


 だが、今は考え方が変わってしまった。私のいまわの際が、その最終段階に際して、発作的な一瞬で終わるのか、それまでの悪行に罰せられるように、長く苦しみもがいて死ぬのか、知らない。ただ、「よく死ねたらいい」と思うようになった。


 何となく(ほんとうに何となくだった)、引かれるようにモンテーニュを読んでいて、その中に「よく死ぬ」という言葉があったのだ。


 この「よく死ぬ」から、私に浮かんだイメージは、微笑み・穏やか・静か、そういった人の面影だった。自分はやることをやって生きたのだ、という満足した感じ、切羽詰まっていない、余裕のある、優しい微笑を、その人は絶えず浮かべていた。それは、よく死ぬにあたって欠かせない柔和さであり、微笑みであるように思えた。


 パチンコをやり続けて死ぬのもいいのだが、しかしそれは、「よく死ぬ」にあたって、何か決定的に反するように思えたのだ。

 死ぬ時に、微笑める情態でいるためには、生きている間に微笑む時間が多くなければ、死に際しても微笑めないだろう。そんな気がしてならなかった。


 パチンコ屋では、しかめっ面ばかりの時間が長い。


 完全完璧、完膚なきまでな満足をもって死ねるわけがない。ただ、小指の爪の先ほどの満足があればいいのだ。それは小さければ小さいほど、愛しく、よく、感じられるように思う。大きな満足、喜びなど、むしろ要らないのだ。


 微笑んで、穏やかな気持ちで死んで行くために、生きたい──そんな思いも、パチンコから私の足を遠ざける、要因の1つになっているようである。


 どんなに抗おうとも、死の来訪を拒むことはできない。そのお迎えを、どうせなら快く受け容れたい。どうぞ、と笑顔で迎え、座布団を差し出し、お茶も入れよう。そんな最期のために、日常を穏やかに、微笑みをもって過ごしたいと思うのだ。

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