第61話 依存症者の告白(61)

 あなたは、何かを「信じています」と誰かに公言する時、ほんとうに信じて、その言葉を発しているのだろうか。

 それとも、ほんとうに信じているかどうかは危ういけれども、信じたい気持ちが強いために、「信じています」と断言するのだろうか。


 私は、「信じる」ということを信じていない。「信じていない」とすることも、信じていない。「信じよう」「信じまい」とする、その気持ちだけを信じている。


 信じることは、その対象に自分を打ち投げ、委ね、自分を失うに等しいことのように思える。妄信、狂信することが、ほんとうに信じることのように思える。それは、怖い。


 そもそも、信じるとは、どういうことなのだろう?

「信じていたのに」と泣く人は、その相手に裏切られたのだろう。しかし、「信じていた」自分自身は、なぜ「裏切られて」しまったのだろう?


 私には、ヒトは、イメージによって何かを決定するイメージがある。つまり、裏切られたと言って泣く人は、相手に、この人は裏切らない人だというイメージを自分の中でつくりあげていたのだと思う。


 しかし、裏切られた。相手は、自分の中にいた相手と、違っていた。その涙は、厳密に言えば、相手には何の非もなく、その相手を「こういう人だ」とした自分に裏切られたための涙である。


「裏切られた」という言葉を堂々と言ってのける人を、私は心から同情できない。それまで信じていた自分のことを、簡単に片づけ過ぎている。相手に、「わたしは信じていたのに」とは、自分ひとりで信じておいて、まるで自分のせいではないような言い分である。


 信じるも裏切るも、ひとりの中で、自分を主人公に仕立てた自作自演のドラマのように思える。

 私が、もし「裏切られた」のなら、やはり泣く。ただ、それを相手のせいにはしない。そうなった、自分の運命のせいにする。

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