一幕 雨に燻る欠片
植物園を出た尚を向えたものは、傘を差すのが億劫になる程に弱い霧雨だった。
ステラドレスを解除すると同時に、負っていた外傷が消えていく。しかし、決して無傷という訳ではなかった。戦果の代償はフォージに何らかの欠損という形で現れている筈だ。
歩き出した尚の姿が戻ると同時に、その隣にスーツに身を包んだ長身の男が現れる。眼鏡のレンズに当たる雨に鬱陶しげな態度を隠さない。
「お疲れ」
片手を軽く挙げた尚に対して、愛染がフンと息を吐いて応える。殴り足りないと言わんばかりの血の気の多い言葉が薄い唇が吐かれた。
「もっと殴ってやってもよかったが」
「新人君が頑張ってくれたからねぇ。いやぁ、若者は頼もしい」
言いながら、後が大変だろうなと他人事のように思う。今回初めて略式執行に立ち会ったという彼は、この後待ち受けている処理の煩雑さを知らないだろう。これから避けて通れない道だ。――ニュートンがこの道を歩むという選択肢を取るのならば。尤も尚にとっては正味、どちらを選ぼうと一向に構わないのが。
そんな内心を見透かしたのか、愛染が舌打ちを漏らす。
「思ってもねぇ事を言うのはやめろって言ってるだろ。腹立つな、貴様」
「殴り足りないからって人に当たるのは良くないよ。最後に一撃決め込めたんだから、それでチャラにしてくれないかな」
「あァ? 弥生テメェ、あれくらいで私が満足すると思っているのか?」
「ブライトの息の根を止めたのは君だろう。それにあの略式執行で手加減なんて甘い事をした心算はないよ。君もそうだろう、愛染」
決して手を抜いて戦っていたのではない。相手の力量を思えば、油断をして構えていられる筈も無い。そうでなくとも、ブライトであればどんな相手であろうと慈悲を掛ける尚ではない。それは愛染も同様だ。そして、互いにそれをよく知っている。
尚の言葉を愛染は否定しなかった。舌打ちを漏らし、煙草とライターを取ろうとしたが霧雨に気付いてその手を止めた。更に舌打ちを重ねる。
「違いねぇ。中々の相手だったのも確かだ……つーか、今回殺ったブライトってアレだろ。前にヤードでヤり合った捜査官じゃねぇか」
「あぁ……壬生の事、覚えてたんだ」
「それなりに骨のあるヤツだったからな。まぁ、貴様の言う通り、私の勝ちだが」
「今回の功績の幾らかは私にあると思うけど?」
「向こうだって似たようなモンだろ」
捜査官とフォージが、それも自身の相棒とではなく他の捜査官のパートナーと訓練の一環と称して殴り合いの死闘を繰り広げたという珍事を、その元凶は一切悪びれる素振りを見せない。勝利を宣言しながら口端を吊り上げる様は理知的な雰囲気を裏切る獰猛なものだった。そういった表情は別段珍しいものではないが、普段よりもどこかテンションが高いように見えなくもない。
ブライトの討伐は彼の存在意義だ。それを遂行したとなれば、悪い気はしないのだろう。たとえ、己の核となる欠片を失ったとしても。愛染 陸はそういう男だった。それはフォージだからというものではなく、単に彼の気質としてのものだ。
己の拳の調子を確かめるように軽く腕を振う。しかしそこで、何か違和感を覚えたように霧雨を払う挙動が僅かに鈍る。その些細な変化に気付かない尚ではなかった。
「……失った一つ、か」
「だろうな。感覚……痛みか? 妙な感じだな」
「詳しい検査が必要だな。もう一つのモノも含めて」
先程の略式執行で消費したフラグメントは二つ。更に今回よりも前に一つを失っているので、残りはあと二つ。“まだ”とも“もう”とも取れる数だ。
フラグメントは、フォージにとって己の存在や意識を確立するためのものだ。フォージをそのフォージたらしめる欠片を全て失った時、彼らは一年の寿命を待たずして龍へと身を堕とす。最初からそういう造りの存在だ。
愛染も例外ではない。しかし、彼の中核を担う“苛立ち”と“怒り”はまだ失っていないように思えた。
ならば、今はそれでいい。
「オイ弥生。貴様まさか、これだけの残りフラグメントじゃあ戦えないとか抜かす気はねぇだろうな」
「それこそ“まさか”じゃないか。君が最後まで止まるとは思っていないし、止めようとも思わないよ」
“待て”も“容赦”も必要ない、とは戦いに赴く際に尚が口にする言葉だ。試すような台詞に肩を竦めてみせた尚に向け、愛染が「それならいい」と微かに口端を吊り上げる。
緩い笑みを返して、そこで会話が途切れる。足音だけが、湿り気を帯びた温い空気に響く。
180前後の愛染とは10センチほどの身長差があるが、歩調はそれほど変わらなかった。共に並び歩く、その姿だけを見れば今しがた死線を潜り抜けたばかりとは思えないものだ。
間も無く朝を迎える筈の街は、変わらず曇天が覆い、弱い霧雨がただ振り続いていた。
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