第2話 夢オチ

 まるで蜃気楼のようなもやのかかった空間に俺はいた。ここがどこで、自分がなぜここにいるのかもはっきりしない。


 唯一はっきりしているのは目の前にいるこの女性と俺は顔見知りなんかではなく今日初めて会ったと言うこと。そして。


「お前、そんなところで何やってんだ?」


「見たら分かるでしょ? 今から飛び降りて死ぬの」


 今まさに彼女は自ら命を絶とうとしているということだけだ。俺は苦笑を浮かべて。


「本気で死のうとしている人間が親切に死ぬって答えるのか?」


「うるさいわね。私が何しようとあなたには関係ないじゃない」


「関係大ありだね。お前こそ見たら分からねえのかよ。こっちとら一日の中で一番楽しみな昼食を食べている最中なんだ。てめえの自己満足で胸糞悪いものを見させられて、飯がまずくなったらどう責任取ってくれるんだよ」


「その時は死んで詫びるわ」


「そんなんで割に合うか。身体ぐらい差し出してくれねえとな、別に死ぬんだからそれくらいなんともないだろ?」


 ふん、と彼女は小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。「あなたに抱かれるくらいだったら生きていたほうがマシだわ」


「よし、結論でたな」


 抜かったわねと彼女はジト目で睨みつけてきた。初めて会ったのにその顔になんだか俺は妙な親近感を覚えた。


 俺は味のしないお米をもぐもぐと咀嚼しながら、このように続けた。


「何があったか知らねえ、別に、聞きたかねえし、興味もねえ。だが、今日のところはやめろ。お前に本気で死ぬ意思があるんだったら、今日でも明日でも大差はないだろ」


「……」


 彼女は黙って俺の乏しい説得に耳を傾けていた。それをいいことに。「まあ、俺は明日も明後日もここで昼食を取っているからいつ死ねるか分かったもんじゃないけどな」


「一人寂しくぼっち飯ってわけ」


「自殺願望者よりましだ」


 彼女はゆっくりと語り始めた。


「別にあなたが思っているような理由じゃないわ。いじめとか、家庭環境に問題があるだとかそんなんじゃない。ただ……」


「ただ?」


「なんとなく生きるのが馬鹿馬鹿しくなっただけ」


「なんじゃそりゃ」


「あなたは生きててそんなふうに思うことない?」


「考えることはあっても、わざわざそれを実行に移そうと思ったことは一度もないな。俺も含め、それこそ、ほとんどの人間はただなんとなーく生きることに精一杯なんだよ」


「そうね。それで正しいと思う。けど、それって同時に必ず将来後悔する生き方でもあるわよね。大人はこぞって言う、自由に生きられる今が一番楽しい時期だって。でも、自由に生きれば生きるほど後々ツケが回ってくる。結局は、人が本当に自由になれる瞬間なんて死ぬ時だけってことよ」


 極論ではあるけど、少し分かるような気がした。


 大人は口癖のように勉強しなさいと言うけれど、必ずしもそれで将来が約束されることはない。努力したところで報われる保証はどこにもないのに、生きていくためには必要になってくる。


 この矛盾に、嫌気が差すのは無理もないことだ。おそらくだけど、彼女は自分の人生というよりも、他人の人生にあれこれ言いたいことがあるのだろう。

 

 わがままな人間ほど融通が利くこの世界に――。


「なんだか白けたわ……」


 そう言って、彼女は踵を返す。去り際に彼女が。「あなた、名前は?」


「これから自殺しようとしている人間が人の名前なんて気にするのか?」


「いちいちうるさい奴ね。冥途の土産ってやつよ」


「人に名前を尋ねる時は自分から名乗るものだぜ」


 彼女はむっとした顔で、自分の名前を名乗った。



 俺ははっと目を覚まし、むくりと身体を起こした。枕元に置いてあったスマホで時間を確認する。まだ、四時を少し回ったところだった。


 悪夢を見たわけでもないのに、俺は冷や汗をかいていた。


 同時に尿意に襲われて、俺はスマホの僅かな光を頼りに一階のトイレに駆け込んだ。居間に寄り、出した分だけ水分補給をしたところで、階段を上り、再び布団に入る。


 転校の手続き等で思っていた以上に疲れていたようだ。睡魔は意外にも早く訪れた。しかし、あの奇妙な夢の続きを見ることはなかった。

 

 彼女の名前を思い出すことも叶わなかった。

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