070 後ろの正面、レベル上げ

 天内の人生の中で、消しゴムを落としたことをこれほど後悔したこと無い。


 なんとはなしに落とした消しゴムを追って体を横に向けた時、チラリと視界に入ったのは不審者だった。

 驚愕と共に見てしまったその不審者……桜井 亨は、教室の後方で素振りをしながらもその顔は微動だにすることなく教師の方へと向けられている。


 その様子の何が不気味かというと、素振りをしている桜井から一切の『音』が聞こえないことだ。


 鞘に包まれた剣が風を切る音も、服が擦れる音も、踏み出した瞬間の足音も、兎にも角にも音が聞こえない。

 素振りのリズムは不安定で、激しく繰り返したかと思うと今度は動作のズレを確かめるようにゆっくりとした速度で振り始める。

 もはや体に染み付いているとも言える慣れた動きには感心するものがあったが、それはそうと首から上が空間に固定されたかのように微動だにしないのが不気味さを加速度的に上昇させている。


「(なっ!? いや、あいつ何だ!? 何やってんだあいつ!?)」


 一応は知り合いの人間が、教室の後ろでただ淡々とパントマイムをしていたならば。

 しかも基本は無表情のくせに、時折思い出したかのように顔をだらしなくにやけさせるのだ。


 一般的な反応としては無関係を装い嵐が過ぎるのを待つだろう。

 だが、桜井が同じ転生者であることを知る天内はその存在を無視することが出来ない。

 同郷の人間が奇行に走っているのを見て、自分もそうだと思われたくない。だからどうにかしなければならないという謎の使命感が湧き上がる

 しかし具体的手段を思いつくことが出来ずに自身の机に目線を落とす。もはや授業は耳に入っていなかった。


「(そうだ、先生! 先生は何で何も言わないんだ!?)」


 まるで電流が走ったかのような感覚と共に勢いよく顔を上げれば、そこに居たのは「温泉が如何に人生において有用なのか」を語り続ける教師の姿。

 『迷宮学』と呼ばれる授業を担当するこの教師は、ダンジョンの種類や構造、罠や特殊な力を宿す床などのダンジョン探索をする上で必要となる知識を教授してくれる。

 原作においては彼の授業に出るとダンジョン探索が有利になるスキルを獲得することが出来る為、殆どのプレイヤーがお世話になったであろう教師だ。

 天内はそんな教師と視線が交わり、教師は温泉の効能を語りながらも天内に優しげに笑いかけた。

 二十数年に渡る教師生活の中で磨き上げたメンタルは一切の動揺を見せること無く、その言葉は淀みなく紡がれていく。

 天内はその姿にゲームキャラとしての設定ではなく、彼が歩んできた教師人生、その経験が結実した姿を確かに見た。



 が、それはそうと温泉の話をしっかり聞いてくれる桜井の事を優先して、注意どころか話に熱が入り始めているのも確かに感じ取った。



「(くそ、駄目だこの温泉オタク! 普段、生徒達に温泉の話をまともに聞いてもらえないから話に熱が入り始めてる!!)」


 彼は教師である前に一人の温泉オタクであり、ダンジョンに湧き上がる多種多様な温泉に魅入られた男である。

 唯一無二の『温泉鑑定』スキルを有する彼は常に同士に飢えており、その可能性を見出した不審者こと桜井は今や有象無象の生徒よりも万倍の価値があるダイヤモンドの原石のような存在。


 残りの授業時間37分を犠牲にしてでも沼に……否、温泉に引きずり込む覚悟が教師にはあった。


 ともあれ、これにより天内の望みは絶たれた。

 使い物にならない教師に頼る道を捨て、天内は再び思考する。議題は一つ、後ろで奇行に走る不審者に声をかけるか否かだ。


 そもそも声をかけずに放置してしまえば良いと思う者も居るだろうが、今や天内の中で桜井の存在感は耳元を飛び回る羽虫と同レベルに膨れ上がっている。

 気がついてしまった以上、気になって、気になって仕方がないのだ。解決せねばどうにもスッキリしないのだ。


 仮に、周囲に人目が無い状態で不審者撃退用カラシスプレーを持っていたならば天内は迷わず桜井に吹きかけていただろう。

 しかし、ここは生徒が詰めるクラス内。自分が突如として声を上げて後ろの不審者を糾弾すれば否応なしに目立つ事になるし、こんな奇行に走る人間と知り合いだと周囲に知られる覚悟も今は持っていない。


「(レベリングが目的だと言ってたけど、ここまでするか普通!?)」


 するのである。

 そんな単純明快な行動原理に突き動かされる桜井に、天内 隼人は残りの35分の授業時間を悶々とした気持ちで過ごし続ける事となる。

 授業の終わりに吐き出された彼のため息は、それはそれは長く大きなものだったと言う。




「よう天内。お前そんなに疲れてどうしたんだ?」

「お前のせいだよッ!!」

「はい?」

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