023 邪悪たる夜空の王
「う……」
アイリスが目を覚ましたのは氷の城『ニブルヘイム』の大広間に似た薄暗い場所だった。
冷たい氷で作られた椅子に座らされている彼女は、両手を天井に繋がる鎖で拘束され、腹部には彼女と背もたれを縫い付ける黄金色の槍が突き刺さっている。
冷気に冷やされ凝固した血液が止血代わりになっているのか、見た目よりも失った血液は少ないと思う反面、冷たさも熱さも感じないその傷口を見て、想像よりも重症を負っているのだろうと彼女は思った。
「(ここ、は……『塔』の中? こんな場所が……何処……に?)」
「ここは『塔』の中枢の更に奥、一部の者しか知らぬ秘密の場所だ。もっとも、今では私とアヌビスしか知るものは居ないだろうが」
もはや瀕死の状態とも言える彼女の前に現れたのは、身長2mはあろうかという大男だった。
男は頭の片側を剃り上げておきながらも、その反対からは足元まで届くほどに長い紫の髪を伸ばしており、それにより顔の半分どころか身体の半分を髪で包み込んでいる。
巨大な戦斧を背負っている上半身は、鍛えられているというより引き締まっていると言えるような細身の体だった。
だがしかし、その体中に刻まれた渦を巻く赤いタトゥーの数々は男の体を二周り以上大きく見せるほどの存在感を与え、物々しい凶暴性を印象づける。
更に言えば、そのタトゥーは首を通り顔や耳にまで達している上に、頭のバランスの悪さを調整するためなのか、男は常に頭を剃り上げた方へと傾けていた。
あまりにも不気味で、奇妙なその男の、されど堂々とした立ち振る舞いにアイリスは息を呑む。
「そう警戒するな。折角の再会だろう」
「貴方は……誰……?」
「何を。いや……何てことを言うのだアイリス。私に向かって『誰だ』だと?」
その言葉に一瞬にして憤怒の表情を浮かべた男はアイリスに突き立つ槍を握りしめ乱暴に引き抜く。
身体にぽっかりと開いた穴を駆け抜けるように、消失していたはずの痛みと熱が蘇る。
その痛みを僅かでも和らげようとアイリスは叫び呻いた。
「がぁ!? ぐッぅ~~ッ!」
「何を叫ぶ! 痛いのか!? 私を傷つけておきながら、お前が痛みを語るのか!? お前が!! お前が!!」
男は怒りのままに手にした槍でアイリスを何度も殴りつけた。
一切の加減を考えぬ文字通りの暴力が、彼女の命の灯火を加速度的に奪っていく。
「ハァ、ハァ……! いや、待て。そうかアヌビス。お前の仕業なのかアヌビス! おのれ忌々しき我が弟め!! アイリスに罪は無かったではないか!」
「がぼっ!?」
男は天に向けながら怨嗟の声を叫びつつ、手にした槍をまたもやアイリスの腹部に刺し戻す。
寸分違わず同じ位置に戻った槍の動きが傷口との摩擦で抉るような痛みを生み出す。
アイリスは内側よりせり上がってきた血を吐き出した。
彼女はここまでの仕打ちをされてなお、何故自分が生きているのか不思議でしょうがなかった。
「そうであるならば教えよう。いや、知らねばならない。私の名はバビ・ニブルヘイム。アヌビスの兄にしてお前の父だ」
「何を、馬鹿、な」
「あの男はお前の父は死んだとでも語ったか? 違う、違う違う!! 奴は私からお前を奪い去ったのだ! 私のものを! 身勝手にもだ!」
アイリスはバビが何を言っているのか理解できなかった。
自分の父は終末の異名を持つ狼の魔物との戦いで死んだと伝えられてきた。
かつてアヌビス達が地上に住んでいた頃、逃げ惑う人々を守りながら、アヌビスとその仲間が駆けつけるまで戦い抜きその命を落とした、と。
過去に一度、現世へと連れられた時にアヌビスから優しく語られたその話を聞き、アイリスは顔も覚えていない父を誇りに思った。
現世という暖かな場所こそが、父の守り抜いた宝であると感じていた。
だからこそ自分も誰かを守れる仕事を、『冥府』の秩序を守る警備役を希望した。
彼女の中で父とは『理想』と呼べる神格化がなされていた。
だからこそ『
「あぁ忌々しい! 私からお前を奪っただけでなく、その記憶さえも書き換えてしまうなど! これが兄に対する、父に対する所業か!? 外道、外道に過ぎる!」
「……う、ぐ」
「加えてお前は何故私を思い出さなかった!? 自分が誰のものか! 何故思い出さなかった!? 出来が悪い……あまりにも出来が悪い! アヌビスの魔の手に落ちながらも、なお私を忘れぬ事が『
だからこそ目の前の男が父を名乗ることが理解できなかった。
こんなにも醜い存在が家族であるなどと考えたくも無かった。
彼の放つ禍々しい『熱意』が目を焼いていく。
痛みから逃れるように力強く目を閉じるも、瞼の裏へと突き抜けてくる刃のような『熱意』に、瞳のみならず心までもが軋んでいくのが自覚できた。
「まぁいい。お前にも落ち度はあるが、大元の原因はアヌビスにある。こうして俺の下に戻ってきたのだから、お前もまた務めを果たせばそれでいい」
「離、せ……!」
「黙れ。動くな」
「あ、がああああああああぁぁぁ!!」
バビがアイリスの頭を掴む。
加減を知らぬその掴み方はこめかみに指が食い込み激しい痛みを伴う。
抵抗するように首を揺さぶろうとも、それを許さぬと言わんばかりに力が増していく。アイリスは只々叫ぶことしかできなかった。
「よし。おい、アイリス。お前を攫った男の名は何という? お前を育てた男の名を何という?」
「っぁ――な、なに……を?」
「良いからとっとと答えろ!! 二度も三度も言わせるつもりか!! 思い出せ!! 言え!!」
「そんなもの――? え? っ!?」
言葉が出てこなかった。
自分を今日まで育ててくれたのは『
……『 』とは誰だ? 痛みで出てこないだけ?
いや、違う。『 』は、何故? どうして出てこない?
アイリスは今までの痛みさえも忘れ、突如として欠落した記憶に呆然とする。
『 』は大切で尊敬していた存在のはずだ。
しかし名前は
数日前にも話した相手だと言うのに、その情景にいるべき場所にいるべき存在がぽっかりと抜け落ちてしまっている。
「そんな、何で!? どうして!? 私に、私に何をしたの!?」
「よしよし。消えたな。それでいい、それでいいのだ。『 』の記憶など不要である」
「なんで、何で聞こえないの!? その名前は!? どうして!! どうして!!!」
バビが口にした言葉さえも認識できない。
そこには大切な人の何かがあるはずなのに。
絶望し、恐怖し、バビから逃れようと彼女は暴れ出した。
しかしその行動は闇雲に自身の体力を削るばかりで、傷口は広がり両手を縛る鎖が更に強く食い込んでいくる。
「離して! 触らないで! 帰して! 嫌ぁ!」
「ダメだ。お前が我が家に帰るにはその頭の中に不要なものが多すぎる。これまでの全てを消して、お前は私の娘に戻るのだ。これは必要なことだ、我儘を言うな」
狂乱状態のアイリスを見てバビは笑みを浮かべる。
彼はアイリスを娘と呼びながらもその苦しむ様子を堪能するように、ゆっくりと丁重に彼女の頭の中から『不要』と断じた記憶を消していく。
「嫌!! 嫌ぁ!! 誰か、誰か助けて!! 誰かぁぁ!!」
「そう暴れるな。如何にお前が私の頑強さを受け継いでいるとしても、その傷では何時か死んでしまうぞ? そんな事は許さんからな?」
要らぬ、要らぬ、これも要らぬ。
必要なのは私のことのみ、父のことのみ、それだけを思いそれだけに生きろ。
果て無きエゴの塊、
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