第31話:熱病

 英語の発音練習に際して最も重要な要素のひとつは、舌の位置だ。

 たとえば“TH”という日本語にはない発音をする時、よく、『舌を噛め』というメソッドが流布しているが、実際はいちいち噛まないし、舌の先端が上の前歯に触れていればもっとナチュラルに、簡単に発音できる。


……なんて自分の脳内で冷静にうんちくを垂れ流しているが、実際の俺はとてつもなく緊張しており、詩日さんがお手洗いに立った瞬間、詩雨に泣きついた。

「どどど、どうしよう詩雨! 俺、一対一だと自分がどうなるか分からねー!! もしかしたらなんか心臓麻痺起こすとか鼻血による失血死とか、そんなレベルだよ!」

「でもすっごいチャンスじゃん!」

「じゃあおまえ俺が失血死してもいいのかよ!」

「死んでみないと分からないだろ!」

 詩雨が珍しく声を張った。

「輝くん、恋愛ってそういう緊張とか自制とか全部含んでるんだよ。初めてだからそりゃ未知の感情が恐かったりすると思う。でも、姉さんは輝くんにかなりの好感度を持っているように、弟として感じる。あの変な生物は異性同性問わず好き嫌いが激しい。それをクリアしてるだけで自信を持った方がいいよ!」

「そ、そうなのか……」

 実の弟が言うのだから、おそらく最初の一線はクリアできている、と。

「じゃ、じゃあちょっと頑張って、みる。ぅぐあぁぁ緊張やべー」

 俺はひたすらうなっていたが、程なくして詩日さんが和室に戻ってきた。

 すると、なんということだ、詩雨が立ち上がった。

「邪魔したくないから僕は部屋に戻るね。宿題もあるし」

「ん」

 詩日さんはそう返したが、俺はもう鼻から血じゃなくて脳漿がしたたるんじゃないかって勢いでパニクってしまった。

「大丈夫? きみはよく顔の色が変わるね、見てて面白い」

 詩雨が出て行った後、詩日さんはそう言った。

「お、面白がっていただけるなら幸いです……」

 小声で言いながら、俺はバッグから自作の発音練習教材を取り出した。

「いや、違うよ。笑いものにしてるんじゃないくて、興味深い方の『面白い』だよ」

「はぁ……」

 何のフォローになっているのか分からなかったが、俺は手の震えを抑えつつ教材を詩日さんに手渡した。

 アルファベットが一文字ずつ縦に並び、それぞれに発音の解説を付けたものだ。

「では、始めようと思いますが、ご留意いただきたいのは、俺がアメリカ英語を話すということです。イギリスやオーストラリアとは別の、まったく違う発音もあります」

「なるほど」

「早速ですが、一番上の”a”の発音、イギリス英語では日本語の『あ』に近いですが、アメリカ英語ではこれに『え』が混ざります。日本語の『あ』を言う時の口で、『え』と言ってみましょう」

「む」

 詩日さんはしばらく口をもごもごとさせて、やがて口を開き、

「あぇ?」

 と発した。やべえ超可愛い。

「最初はイメージだけで大丈夫ですよ、じゃあ次は……」

 俺は講師としてのアイデンティティを奪還し、順調に一文字ずつ発音のコツを詩日さんに伝授していった。

「はい、先生」

「何でしょう」

「今ので一通りアルファベット一文字ずつの発音はカバーできたけど、”th”という日本人の最大の敵や、他の二文字以上の発音については……」

「あ、もちろん後々お教えしますよ。”th”もですが、”r”と”l”の発音、もしくは”s”と”sh”も、はっきり理解しておかないと、場合によっては大変なことになります」

「たとえば”th”だと、よく舌の先を噛んでって言ったり、”r”は舌を奥に巻く、という解説を見かけるんだけど、その辺はどうすればいいかな」

「良し悪しですが、舌の位置が重要なのは本当です。”th”であれば、舌の先端を上の前歯に触れさせてみてください」

「ん? む、えーと」

 詩日さんは口を大きく開いて、一生懸命舌を動かしている。

「ま、前歯のどの辺りにくっつけたもんか……」

「ああ、先端で大丈夫ですよ、えーと」

 俺は無意識に身を乗り出し、詩日さんのあごに手をかけていた。


「あっ……!!!!」


 俺は自分が何をしたか客観視し、慌てて身を引いた。

「すみません! ごめんなさい!」

「いやいや、もっかいやって」


……へ?


「ん」

 詩日さんは口半開きで顔を突き出してきた。

「あの、この、辺りです、かね」

 詩日さんの歯や舌に触れないようにあいまいに位置を言うと、詩日さんは頭に頭蓋骨より大きなはてなマークを浮かべていた。

「意味が分からない。ちゃんと教えてもらえないと困る」

「そ、そうですよねすみません! えーっと、ここ、前歯の先端で……」

 と、俺は自分の口を使って披露してみたが、詩日さんはまだはてなマークを発している。

 どうしたものか、と考えていると、詩日さんが座卓ごしにまた顔を突き出した。

「舌の位置は? ちょっと触って」

「い、いやそれは……」

 俺がそう言うと、詩日さんは俺の両頬を包むようにして引き寄せた。

「大丈夫、減るもんじゃないから、ちょっと教えて」

「い、い、いえ、俺が、減ります」

「減るのか」

「減ります」

 この時点で、おそらく俺の理性とまともな思考回路、倫理観は霧散していたに違いない。

「ここです」

 熱病にかかったように、俺は茫洋とした頭で詩日さんの前歯の先端に指で触れた。

「ふむ。舌は?」

 俺は気づくと詩日さんの綺麗な色の唇に自らの唇を寄せていて、舌で詩日さんの前歯の裏をなぞっていた。

「その辺です」

 唇を離し、でも顔と顔の距離はそのまま、俺はそう言った。  

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