熱病、或いは自制心という概念の崩壊

第30話:てるるんの英会話レッスン、勃発

「英会話レッスン?」

「そう。輝くん結構話せるみたいだし、これからは読み書きだけじゃなくて、会話力も必要になるじゃん? だから輝くんと、もうひとりの友達と、ウチで勉強しようと思うんだ。姉さんも前々からスピーキング苦手って言ってたから一緒にどうかなって」

 ある程度期待はしていたが、詩雨は予想以上に策士だった。

 今、俺と詩雨は、詩日さんと三人で、中山家近くの喫茶店にいる。『純喫茶』という呼称が似合う、昭和の香りを残した店だ。

「あの、僕なんかで講師役が務まるかは分かりませんが、できる限りサポートします」

 俺は詩日さんを正面から直視できなかった。見たらまたコントロール不可能な状態に陥りそうだったから。

 でも、嬉しい。

 目の前に詩日さんがいる。なんでこれだけの事実でこんなにも浮かれるんだろう。

「もうひとりの友達っていうのはどういう人かな」

「輝くんの中学時代からの友達なんだけど、部活動があるから、毎回来られるかは分からないって」

 詩雨がそう説明すると、

「どうだろうな、私は三人が限界だ」

 と詩日さんは言った。何だろう、と思ったが、詩雨はきちんと理解していた。

「じゃあ彼が来ない時だけ参加するとかは? どっちみちその人は忙しいから」

 なるほど、大人数の会話が苦手なのか。

 詩日さんは、んー、と口を開けずに声を発し、古びたテーブルの表面を人差し指でトントンと叩いていた。手は白くて小さく、指は短い。愛らしい。そう思った。

「私もそろそろ真剣に英会話に挑戦しようと思ってたから、助かるし、でも教えてもらえるならそれ相応のお礼が必須……。しかし輝くんは金銭面ではまったく困っていないという説が濃厚だ。その辺りはどうだろう?」

 あくまでも芝居として、俺は答える。

「交通費と飲み物だけいただければ大丈夫です。人に教える、ということは俺自身の上達にも繋がると思うので」

 ふん、と軽く、詩日さんは鼻を鳴らし、8秒ほど停止してから俺たちの方に向き直った。

「了解した。じゃあ行こうか」

 唐突に、鞄を手に詩日さんは立ち上がった。

「へ?」

「え、ちょっと待って姉さん、今からウチでレッスンを?」

「そのために来たんじゃないの?」

 当然のような顔で言い、伝票を持って詩日さんはレジに行ってしまった。

「……詩雨、これは……」

「チャンスだよ! 姉さんがあんなに食いつくなんて珍しい! 行こう!」



 まったくこの軍師・中山詩雨は面白い作戦を練り上げてくれたもんだ。

 俺が英会話ができる、とこぼしたのと、詩日さんが英米文学が好きで読むのは得意だが『会話』はほぼしたことがない、という需要と供給の一致に気づき、暉隆は実際には来ないがナチュラルに聞こえるよう、ここまで自然に話を持ってきてくれた。

 俺が、詩日さんが好きだと詩雨に告げた翌日には詩雨はこのプロジェクトの青写真をプレゼンし、実行する運びとなって、俺は週末までの空き時間で英会話の『教え方』の書籍を参考に、自分で資料や教材を作っては教えるイメトレをしていたのだ。


 三度目になる中山家への来訪を、詩雨ママがまた歓迎してくれた。

 一回の和室で、俺の英会話レッスンはスタートした。詩日さんの部屋は詩雨の部屋より本が多く、空き部屋はここしかないとのことだった。

「では、始めさせていただきます」

 俺がそう宣言したのが、午後二時。レッスンは、初回なのでレベルチェックと発音矯正に徹しようと俺は思っていた。

「じゃあ詩雨から。俺が簡単に挨拶をするから、恥ずかしがらずに発音に気をつけて返してくれ」

「オーケー!」

“Nice to meet you”から始まる、基礎中の基礎を、あえて振ってみた。だが、学校のテストで英語が得意な詩雨が、酷くつまづいていた。

「今のは”I was raised in Japan”が正しい。復唱して」

「あ、あいわずれ、れいずど、いん、じゃぱん」

「”raised”のdは、そこまで強調しなくてもいいかな。後で三人でやるけど、発音はアルファベット一文字ずつが重要なんだ。じゃ、次の質問」

 といった感じで、まず詩雨のレベルチェックをしたのだが、予想より低かった。特にリスニングは、俺がナチュラルな英語で喋ると、単語同士がくっついてしまうためか、何度も聞き直してきた。文法とかは大丈夫そうなんだが、頭の中でセンテンスを組み立ててから口を開いている、といった印象。

「Alright, 詩雨は以上。グラマーとかは意識せずに、まずはとにかく声を出すことが課題、かな」

「ありがとう。じゃ、じゃあ次は姉さんだね」

「ん」

 俺と詩雨のやりとりを見ていた詩日さんも、流石に緊張や照れがあるのか、いつもよりも背筋が伸びていて、俺にはそれが見栄っ張りのように見えて、そこがまた可愛い。

「では参ります。Hello, I’m Teru Kousaka, nice to meet you」

「な……Nice to meet you too. あーアイム、ウタカ・ナカヤマ。はう、how do you do?」

「凄いですね、バッチリですが、ひとつだけ。『How do you do?』は古めのフレーズなので、ビジネスシーンなど、よほどフォーマルな場面でしか今は使われてない可能性が高いです」

「そうなのか。私たちが中学から学んできたものは一体何だったんだ」

 そう言って少し唇を尖らせる詩日さんはもう、嗚呼ダメだしっかりしろ香坂輝! こんなに頭ん中で可愛い可愛い連呼してたらレッスンにならないし詩雨をないがしろにして不自然になってしまう!

「Hey teacher, 大丈夫? 顔色悪いよ」

 詩日さんに声をかけられて、俺は瞬時に、自分が英会話オリンピック日本代表のコーチ役としてこの二人に日本の命運を賭ける、という脳内シナリオを展開させた。

「それ、それ通じないんですよ、詩日さん。日本語では教師に声をかける時『先生』と呼びますが、英語では言いません」

「そうなのか」

 新たな発見がある度に俺は嬉しくなってしまう。詩日さんの色んな表情が見える。知れる。それがたまらなく嬉しかった。

 結局レッスンはレベルチェック及びその修正のみで一時間近くかかってしまい、発音練習は次回、という流れになった。

「ありがとうね、輝くん! なんか未知の世界だったよ」

 詩雨は本気で言ってるぞコレ。

「はい、先生」

 突然詩日さんが挙手した。

「はい、詩日さんどうぞ」

「私見ですが私と詩雨のレベルに差があるように感じました。マンツーマンにしないと、もうひとりの参加者のレベル次第ではレッスンの難易度が不安定になるかと」

 ああ、それは確かに。


……え? 今『マンツーマン』って言った?


「えーと、つまり詩日さんは俺と一対一でのレッスンを希望される、と」

「うん」

 詩日さんの視界外で詩雨が大きく口を開け、手をぶんぶん振り回している。GOサインだろう、多分、おそらく。

「分かりました。じゃあ空いてる時間を教えてください。次は発音の基礎なので、うるさいところではダメですが……」

「三時からで」

「はい、何曜日の三時ですか?」

「いや、だから三時から」

「すみません、何日の何曜日の三時ですか?」

「姉さん、もしかして……」

 詩雨が両手であごを押さえながら呟くように言った。詩日さんは、仏壇の上の壁時計を指差した。それは、二時四七分を指している。


……へ?


「相対時間で言う十三分後です、先生」


 何この夢展開。

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