第179話 幕間 馬車に揺られる森の中で その②
「見たわね?」
「へ?」
途端に、男の身体が強張った。全身の筋肉に無理やり力を入れているような不自然な直立。
何が起こったのか理解できない男は、目の中の黒い球だけをしきりに動かして、状況を読み取ろうとする。
「ふふふ。単純♪」
男の顔の正面に、カラテアの顔が迫った。息がかかる。こそばゆい。皮膚で感じる感覚だけが、自分の身体がこの世界に存在していることの証明だった。
「奥の手と言うのはね、常に隠しておくものなのよ、哀れな御者のお兄さん」
「ほ、ほはへ……」
「あぁ、無理に口を動かさない方がいいわぁ。私の魔法であなたの全身の筋肉に収縮せよと命令を送っているの。視覚を通じてね」
「ひはふ……?」
「素敵な模様でしょう、これ。私と同じ名前の南国の植物の葉っぱに描かれている模様なの。感応魔法の応用として模様に魔法を組み込んでいてね、すべての文様を見せる必要があるのだけれど、相手の視覚に作用させられる。一発逆転がかけられる私の切り札」
もっとも、あの子たちには見せる前に潰されちゃったのだけれど。カラテアは独り言のように呟いた。
「ま、今から私の魔法の虜になるのに、そんな説明はいらないわよねぇ。あなたにはどんな憧れがあるのかしらぁ?」
「は、ふぁふぁああ!」
暴れる男の首筋を、手枷をしたままのカラテアの両手が撫でていく。何度も行ったり来たりするうちに、男は放心状態になっていた。
「あら、あなた『コーナーの神様』が好きなのね。素敵な物語よねぇ。馬車レースに人生を賭ける男と男の友情物語。私も好きよぉ。一度は平穏な生活を手に入れた中年男が、家族も財産も擲って、レースに熱中する。貴方、もしかして主人公の男と境遇が一緒なんじゃなくって?」
一つ目。二つ目。三つ目。
読み取った記憶に絡めた共通点を上げ、気が付いた時にはすでに魔法が発動していた。
男の瞳に怪しい光が宿る。
「『インプリンティング』。ふふふ、ちょうど運転手が欲しい所だったの。私、ツイてるわぁ」
御者だった男はその使命を忘れ、カラテアの傀儡へと成り下がった。
「まずは、この手枷を解いて頂戴。丁寧にね」
カラテアのことを相棒の整備士だと思って疑わない男は、カラテアの言葉に頷き、枷を外した。カラテアは再びローブを身に纏う。
その時、森の奥から一人の青年が現れた。
「なあんだ。僕が助けに入ること、なかったじゃないですか」
体中に落ち葉を付けた青年は、馬車の周りの状況を確認して小さく嘆息した。
針金のように線の細い青年。旅装束を身に纏い、小さなリュックサックを背負っていた。左手の二の腕に青いスカーフが巻き付けてある。
目を引くのは顔の中央。鼻を中心に大きな痣ができていて、隠そうと張り付けた白いガーゼから痛々しい赤が見えていた。
「探しましたよ、『先生』。何勝手に捕まっているんですか。僕の目の届かないところに勝手にいかないでくださいよ。追いかけるの大変だったんですからね」
青年は旧年の知己と会ったように、カラテアに向かって親し気に手を振る。
その姿を見たカラテアも、一瞬で警戒を解いた。
「コロリオ。貴方、私をあの廃病院に置いて一人で逃げたわねぇ。あの王女様たちの前でまんまと『インプリンティング』を解かれて、魔法を解くヒントまで与えてしまうし……。ホント、優秀な連れがいて私は幸せだわぁ」
「バラしたなんてとんでもない。僕はただ、いい夢から無理やり叩き起こされて不機嫌になっていただけですよ。それがヒントになってしまっても、僕のあずかり知るところじゃないや。咄嗟に名前を聞かれて偽名を名乗っただけでもありがたいと思ってほしいものですね」
「あらぁ、私のせいにするつもり? 偽名って言ったって酷い出来だったじゃない。あからさまに怪しかったもの。カレー食べてたカーレさん」
「僕の美的センスが常人と異なっているのは、密かな自慢なんですよ」
「国民的童話の『ルルベ』すら、まともに演じられなかったのに?」
「僕のほとばしるカリスマ性を隠すには、今のフェアリージャンキーじゃ足りなかったってことですかね? ……あーでも。ルルベはもう少し堪能していたかったなぁ。ゾクゾクする使命感と、力があるという優越感はなかなか楽しかったです」
刺々しいカラテアの言葉にもどこ吹く風。コロリオと呼ばれた青年は、飄々とした態度で会話しながら、馬車の内装を物色していた。
「『先生』が童話の国に捕まったら、僕が教典の国を謀って『先生』を逃がしたこともバレてしまうんですよ。童話の国と教典の国の両方からお尋ね者なんてぞっとしませんよね」
「肝の小さい男ねぇ。未練がましくあの国のスカーフなんか着けちゃって。国を出た時の覚悟が聞いて呆れるわぁ。ちゃんちゃらおかしい」
「要領の良い男と呼んでくださいよ。――さて」
コロリオが馬車の荷台から降り、カラテアの隣に並ぶ。
「どこへ行きます?」
「そうねぇ。北へ行こうかしら。歴史の国。童話の国ではもう商売できなさそうだし」
「うへー。戦の仇敵じゃないですか」
「嫌なら戻る? あの病院へ」
「まさか。お供しますよ、どこへなりとも。僕は観察者ですから」
「パトロンのお守りも大変だわぁ。あー肩が凝る」
「嘘だぁ。絶対にパトロンのことなんか考えていない癖に。自分の研究のことしか考えていない癖に。もう、白々しいのだから」
カラテアが御者だった男に行き先を告げる。レースという言葉にほだされて、男は頷き馬の手綱を握った。
カラテアとコロリオが荷台へと上がる。
「また会いましょう。童話の国の王女様。空っぽの王女様」
馬車は揺れる。
行き先を変え、一路北を目指して。
童話の国の軍が、カラテアの脱走に気が付くのは、まだ先の話になる。
幕間 了
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