第152話 手術室 その②

 肉を断つ音が辺りに響く。

 手術室の温度が一気に下がったように感じた。


「な、な……」

「すっ、すいませんっ! すいません!」

「何をやってるんだぁ!」


 カラテアの怒号が飛んだ。

 あまりの豹変ぶりに、私は完全に硬直してしまう。さっきまで、静かで冷静な人間だと思っていたのに……。


「お前はいつもいつもっ! 仮初めの役柄だからといって手を抜いていいわけじゃないだろうが! 素体は貴重なんだ! それを、台無しにしおって! このっ! このっ」


 逆上したドクターは、自慢の両腕を振り上げて、ナースを殴り飛ばす。


「ちょ、ちょっと!」

「酷いっ!」


 レベッカと私の悲鳴が同時だった。けれど、ドクターは止まらない。


「ご、ごめんなさいっ!」

「謝って済む問題かぁ!」


 手近にあった手術用カートを片手で掴むと、それを振り上げる。乗っていた金属の道具が甲高い音を立てて床に散らばった。

 ナースはおそらくフェアリージャンキーだ。彼にとって都合のいい童話を見つけて押し付け、自分の助手として使っているのだろう。『看護師のお仕事』……は、コメディだから違うか。『クリプトン診療機関』か、『明日を生きて』か……。スーシーって呼ばれてたっけ? えっと、えっと……。


「いくらミスしたからって、てめぇが暴力奮っていい理由にはなんねぇよ!」


 ヴェルトが踏み出した。振り下ろされるはずだったカートを、寸でのところで蹴り上げる。勢いが付いたドクターの大柄な体躯が、衝撃に耐えられず弾き飛ばされた。しばらく宙を舞った後、カートは派手な音を立てて手術室の床を打った。


「ヴェルト君っ!」

「こっちは俺が相手する」

「うん! あたしはあのナースを保護するっ!」


 背後で、レベッカが走り出すのが分かる。足がバネのように伸縮し、次の瞬間狭い手術室を回り込むように駆け出した。あっという間に倒れたナースの元へとたどり着く。


「大丈夫?」

「えぇ……」


 余程怖い目に遭っていたのか、怯える白い腕が助けを求めるようにレベッカに絡みついて行った。力強い力で、レベッカがその手を握り返す。


「こっちは大丈夫! 思いっきりやっちゃって!」


 ヴェルトが大きく息を吐き出すのと、ドクターが憎々し気に見下すのが同時だった。


「私の研究を邪魔する不届きどもめ。これだから低能な輩は嫌いなのだ。また初めからやり直しではないか」

「またはないぜ、カラテア。てめぇがフェアリージャンキーを作り出すことはもうない」

「フェアリージャンキーだと? 私の作品に、そんな妙な名前を付けるな。崇高にして象徴。私は医者にしてアーティストなのだ。くだらない理由で私の目的を阻害するな」


 ドクターは散らばった器具からナイフのような器具を拾い上げる。きらりと輝いた表面に、冷静に睨みつけるヴェルトの顔が映っていた。


 ……おかしい。


 私はその光景の違和感にようやく気が付いた。

 ヴェルトが駆け出す。カラテアも駆け出す。縦横無尽に振り回される刃を、ヴェルトが冷静に見極めてステップを踏む。押されているのはヴェルトだけれど、その表情には余裕があった。

 けれど、私の視線はヴェルトを捉えていない。それよりもおかしなものが、この空間にあった。

 どうして? なんでこんなところにあるの?

 レベッカも、ヴェルトの戦いに夢中だ。手術台の上なんて注視していない。血に濡れた手術台の上なんて、どんな状態であったとしても見たい者じゃないけれど、でも私の視界には入ってしまった。場違い過ぎて混乱した。

 倒れていた点滴台を拾い上げ、ヴェルトが応戦に出る。そんな姿すらどこか別の世界の出来事のようである。


「ヴェルト! なんかおかしい! これは何かがおかしいよ!」

「おかしい、だぁ? ――っと、あぶねぇ! 何がおかしいんだよ!」

「私たちはもしかしたら大きな勘違いをしているのかもしれない」


 だってあるはずがないんだよ。言っていることとやっていることがかみ合っていない。正常な人間だったら、絶対におかしいと思う。


「ヴェルト! 手術台を見て!」

「よそ見してる暇ねぇって! このおっさん、見かけ通り力強いんだよ!」

「私の目標を阻止する人間は、検体になる覚悟をしてくるものだと、聞いてこなかったのかね? かねぇ!?」


 投げつけられたナイフのような器具がヴェルトの頬を浅く切り裂く。


「違う! 違うの! いいから見て!」

「何なんだよ、もう!」


 私は息を吸い込んでのその違和感を口にする。


「鶏肉! 鶏肉なの! ――手術台に乗ってるのはね、生きている患者でも人の遺体でもない! 調理済みの鶏肉なの!」

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