第122話 原典

 パタン、と音を立ててハードカバーを閉じる。その音が静寂をかき乱し、私はふと幻想の世界から戻って来た。


「どれくらい経った?」

「二刻ってとこじゃねぇかな。読んでいる間、誰もここには来なかったぜ。で、収穫はどうよ?」

「うーん」


 思わず唸ってしまった。

 一言で言って芳しくない。

『歩き真似ヒツジ』は、私の記憶通りの物語だった。ヒツジはご主人の気を惹くために二本脚で歩く練習をし、ヒトの言葉を勉強し、同じものを食べつつも人の慈しみを覚え、毛を狩り服を着て人の女性らしい嗜好を憶えて、やがてご主人と結ばれる。

 本当に細かなところは忘れている部分もあったけれど、レモアの行動とは一致しない。謎は何も解決しなかった。


「おかしいなぁ。すごく違和感があるんだけどなぁ。なんでレモアはそれで平気なんだろう」


 足を投げ出し体重を背もたれに預けて、私は天井を仰ぎ見る。高い天井は屋根の形をそのまま反映していて、まん丸のスイカを半分に切って、さらに半分にしたような形をしていた。天窓は小さく開き、ゆっくりと回るシーリングファンが、この書庫の唯一の動体だった。

 何か大事なことを読み間違えている。そんな不安が拭いきれない。私には見えなくて、レモアには見えている何かが、そこにある気がする。


「いくら金文字の童話だからって、本当に炙ったら文字が見えるわけでもないだろうし」


 レモアの真似をして童話を胸の上で抱きしめてみた。程よい重量感が安心感に変わるだけで、これと言って新しい世界は開けない。


「なぁ、嬢ちゃん。俺様にはちょいと疑問なんだけどよ」

「なぁに、ガロン。また変な冗談だったら怒るからね」


 ガロンならこんな場面になってなお、下品な下ネタを投下しかねない。


「そもそも、どうしてその童話は書庫にあったんだ?」

「そりゃ、書庫だもん。自分の書いた童話があっても不思議じゃないでしょ?」

「違う。そうじゃあねぇ。あのレモアって嬢ちゃんは、いつも肌身離さず、その童話を持ち歩いていたじゃねぇか。今日出掛けるときだって、その手に持ってた。だろ?」

「そう言えばそうだね。ということは、この『歩き真似ヒツジ』は、レモアの持っていた『歩き真似ヒツジ』とは別の本ってことになる」


 胸元から剥がし、天井を仰ぎ見たまま童話を光にかざしてみた。舞い上がった埃が、少ない光を浴びてキラキラと幻想的に光る。


「書庫にはもともと二冊あったのかな? それで選ばれた一冊が、レモアの手元にあって、もう一冊が私の手の中にある、とか?」


 思いついた理由を並べてみたが、この答えはしっくりこない。孤児院の間取りをシンメトリーに設計したり、こだわった自分ルールを本棚に課していたポラーノ氏のことだ。『歩き真似ヒツジ』だけ例外的に二冊置いておいたと言うのは考えにくい。本棚にもすっぽりと嵌っていてもう一冊入る余裕はなかったし、周りの童話も今手にしているものと同様に同じ時間を共に過ごした量の埃が積もっていた。


「レモアの抱えている童話は金文字じゃなかったよね?」


 タイトルが金色に印字されていたなら気が付くはずだ。だとすると、保管価値が高いと判断したこの童話を書庫に残す選択をし、自分が普段持ち歩くものはどこか別のところから入手した……。童話の中身が本命ではあるけれど、大切に保管し後世まで残して行きたいと思うその心理は、矛盾しているけれどわからなくもない。


「案外、中身も違うもんなんじゃねぇか?」

「それはないよ。一度出版されてしまったら最後、童話作家と言えど、それをひっくり返すことはできないもん。待ったが許されるなら、続編を書こうとする童話作家の苦渋も少しは緩和されるのにね。……いや、でも待って」

「お?」


 出版されたら最後。それはその通りだ。でも……。


「……出版されるよりも前の童話が残されていたら……」


 童話は童話作家が書く。でも、そこから出版されるまでの間にヘンシュウと呼ばれる人たちの手が入ることを私は知っている。

 ヘンシュウさんは、童話作家が作った童話をより良くするために意見をする。時にはより面白く、時にはより健全に。童話の世界の秩序を守るためには、そう言ったセーフティ機能も重要だ。だから、童話作家が描いた物語が、そっくりそのまま出版されているわけではない。

『あひるの王子』シリーズなど、童話の国から出版された童話だって、お父様配下の学者様が責任を持ってヘンシュウの仕事をしている。

 もし。もしも、ポラーノ氏が書いた童話が、ヘンシュウの審査で引っかかって、書き直しを余儀なくされていたとしたら……。ポラーノ氏が描いた物語とは異なる『歩き真似ヒツジ』が出版されていたとしたら……。


「うん、あるはず! 原典が!」

「原典?」

「原稿、草稿、下書き。言い方はどれでもいいけど、発表前に没になった『歩き真似ヒツジ』の元のお話。ここがポラーノ氏の孤児院だというのなら、残っていても不思議じゃない!」


 それなら、この金色の文字が書かれた童話をいくら読んでも意味がない。レモアの持っているのは、きっと日の目を見ることがなかった原典なのだから……!

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