第110話 消えたパンツ
「朝食の前に皆さんにお話があります。昨日、ヴェルトさんのパンツがなくなりました」
マムの真剣な声が食堂に響いた。
フライングで飲もうと持ち上げた牛乳の入ったカップを危うく取り落とすところだった。口に含んでいなくてよかった。
「私は皆さんのことを信用しています。ですから、誰かが盗んだとは思っていません。ですが、もし、この中に心当たりがある人がいたら、あとで私の部屋まで来てください」
私にはさっぱり緊急性が分からなかったけれど、子供たちは皆神妙にして、自分の膝を睨みつけている。マムの言い方にもある一定の方向性があって、それがピリッとした空気に拍車をかけているのかもしれない。私はばれないようにカップをテーブルに戻した。
「いいですか? 人のものを盗んではいけません。それが例えパンツだろうと、です。何度も言っていますね。自分が同じ仕打ちを受けた時のことを考えるのです。パンツが盗まれたら、嫌でしょう? そういう気持ちに、今ヴェルトさんはなっているんです。先日はレモアの大切な髪飾りがなくなっています。孤児院の空気が良くないものになっています。いいですか。眠れない夜にお化け病院に連れて行かれたくなかったら、注意してくださいね」
「あ! 髪飾りならね、見つかったんだよ! リリィさんが見つけてくれたんだあ」
「あら? そうなんですか?」
「もう髪の毛無いから必要ないんだけどねえ。うくく」
「……。だとしても。皆さん、注意しましょう」
レモアの髪飾りは、昨日、部屋に呼ばれたときに返していた。その時のレモアの反応が淡泊だったので、随分拍子抜けした。その後の出来事が衝撃的過ぎて、今まで忘れていたけれど。
レモアのせいで締まりの悪くなったお説教を無理やり締めて、マムはいつものいただきますの儀式を始める。
レモアは口を半開きにしたいつもの緊張感のない顔をしているし、バートは大層不機嫌な顔をしていた。マムの言葉が暗にバートを疑っているように聞こえたからかもしれない。私がそう聞こえたということは、本人はもっと感じただろう。それでも声を荒げなかったのは、この前暴れてレモアを傷つけてしまったことへの罪悪感があるからなのか……。
「まぁ、どこかで見つけたら、俺のところに返してくれ」
思い出したようにヴェルトが付け足した。
朝食を終えると、今日も眠たい授業である。私はたった三日で、この授業という共同作業に飽きていた。孤児院の子供たちは優秀だ。これだけ毎日学問に励んでいたら、そりゃ国営の製紙工場で働けるようにもなるだろう。童話の国はこういう小さな努力で成り立っている。それが分かっただけで、十分収穫だ。
「リリィさん。三角形の辺の内、直角に交わったこの辺とこの辺の長さが分かっています。残りの一辺の長さを答えてください」
「ぅ……。ぐ……むむ?」
こんな具合である。私の精神は、もう長くはもたない。さらばヴェルト、私は数学という名の悪魔に精神を食い尽くされて死す……。平方根と呼ばれる武器を使って、導き出すのだとマムは教えてくれるけれど、まったくもって意味が分からない。マムはそれを童話にするための紙と結び付けてくれるが、はっきり言ってどうでもいい。童話で大事なのはやはり中身だ。
面白いが全て。全ては面白いかどうかで決まる。
これが真理であり、真理は私である。
どうにかこうにか午前中の授業を乗り切ると、ぐったりしたまま昼食の席に着く。ダグラスとエドナの兄妹が、また頭を撫でてくれた。優しさが染みる。
くそう。ヴェルトもこの辛さを味わえばいいのに。
パンツ被害者の会代表の男は、今日もマムのお手伝いを言い渡されて外へ出かけていた。どうやら私が授業を受けている間は、製紙工場の手伝いに駆り出されているらしい。私もそちらの方がいいと考えたけれど、力仕事は遠慮したい。
「リリィさん、ちょっと部屋まで来てくれませんか?」
食堂に顔を出したマムが、私を呼ぶ。
「呼ばれてるよ、おねーちゃん」
「よばれてるー」
「はいはい。行きますよ」
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