第107話 廊下の先の暗闇
まだ涼んでいくというヴェルトを一人残し、私は先に休むことにした。髪を下ろしたその横顔が、ふと誰かに似ていると思った。けれど、すぐにそれに思い至らなくて、結局思考を放棄する。
階段に足をかけると、やけに階上が暗いことが気になった。子供たちの就寝時間は既に過ぎているから、マムが消して回ったのかもしれない。野宿をしているときは、月や星が明るくて、私はその優しい暗闇が好きだけれど、こういう人工的な暗闇はどうも好きになれない。
軋む階段を登り切ると、静まり返った二階の廊下が続いていた。やはり灯りがすべて落とされていた。
「こんなことならヴェルトと一緒に来ればよかった……」
お風呂に入るため、ガロンも部屋に置いて来てしまったのも手痛い失敗だ。数歩先すら暗闇に呑まれていて、様子が分からない。子供たちの寝息も寝言も、廊下までは聞こえてこなかった。
「通りますよ、と」
踏みしめた廊下が軋み、不気味な音を奏でた。
――悪い子はみんなお化け病院に連れて行かれちゃうんですよ。
子供を叱るときに使っていたマムの言葉が唐突に蘇る。夜の病院なんて訪れたことはないけれど、もしかしたらこんな感じなのかな。
長く続く廊下に同じ形のドア。暗闇と静寂に支配された空間に、物音が一つ……。もう使われなくなって患者さんなんていないはずなのに、音は近づいて来て……。
ぶるりと肩が震えた。
い、いや。考え過ぎだ。うんうん。第一ここは廃病院ではないし、子供たちが眠っている。ヴェルトに聞かれたら、童話の読み過ぎだって笑われちゃう。
怖がる自分に無理やり思い込ませて、足音を立てないように自分の部屋を目指す。どうして一番端の部屋なんだ。廊下が、長いよ。
「……ぅ」
……うん? 今、なんか聞こえた? 気のせいかな?
嫌だなぁ。自分の妄想で怖くなるとか、童話好き失格じゃん。しっかりしないと!
うん! 今のは気のせい。早く部屋に戻ろう。
私が足を踏み出すと、また短い吐息が聞こえた。
「く……。ぅ……」
「……」
いやいやっ! 気のせいじゃないよね!? 絶対なんかいるよね!?
後ろからじっとりと舐る様な視線を感じる。手に汗が滲む。心臓は跳ね上がったまま降りて来てくれない。
振り向けばいい。そう、振り向いて確認すればいいんだ……。
「だ……っ!」
振り向く直前、私の肩を何かが触った。ぬるりと冷たい感触。
震えは足の先からせり上がって、肩のところで爆発した。振り絞ろうとしていた勇気が霧散して、恐怖が私の視界を支配した。
「ひっ!」
もはや一目散である。私の頭は悲鳴を上げることすら忘れ、気付けば全力で足を動かしていた。一歩が出れば勢いが付く。全速力で廊下を走って自分の部屋に逃げ込んだ。ベッドに潜り込み、布団を被る。
安堵は訪れない。
今の、何!? マムがいてヴェルトがいる孤児院で、何が忍び込んだの!?
「そ、そうだ! ガロン!」
布団から顔を覗かせて黒い魔法具を探し、そしてはたと思い至る。
……私、部屋入ったとき、鍵、かけたっけ?
全速力で逃げ込んで、全力で扉を閉めて、そして鍵は……。
ダメ! かけてない!
布団をかなぐり捨て、扉に手を伸ばし……、その時、扉をノックする音が聞こえた。
「……」
伸ばした手が、行き場を失う。
ヴェルトかな? ヴェルトならいいな? でも、ヴェルトならノックなんてせずに入ってくるし……。今なら鍵を閉められる。閉めるべき? でも、扉に近づいて、その時向こうから入ってきたら逃げられな……。
再びノックの音がした。私の思考は完全に中断された。
「ヴェ、ヴェルト? ヴェルトなの?」
これはそうであったらいいという願望に過ぎない。
取っ手が自動的に回り、少しだけ扉が開いた。薄暗い黒い線が、徐々に広がり指三本分くらい開いた位置で止まる。そして、隙間から血走った白い眼がぎょろりと覗いた。
「だ、誰!?」
そうひねり出すのが限界だった。次に口を開いたら、きっと叫び声をあげてしまう。
もう駄目だと思った矢先。
「……うくく。ボクです。リリィさん」
扉の向こうから返事があった。
「え? レ、レモア!?」
一瞬、思考が付いて行かなかった。
奇妙な笑い方も、ねっとりした声質も、私の知るレモアのものだ。認識して、理解して、ようやく落ち着く。
レモアか。うん、レモアなら大丈夫。
扉の向こうの訪問者に気付かれないように、私は大きく深呼吸をした。
声は続ける。
「えっとね。リリィさんに、お話があって。廊下で見かけて声を掛けようとしたら、走って逃げちゃったから。うくく、追いかけて来たんだよ」
「そ、そうなんだ」
それならもっと堂々と訪ねて来てくれないかな。まだ心臓が落ち着いてくれないし、寿命がすり減った気分だ。
「何の話かな?」
私は気を取り直して、扉を開けた。
まだレモアのショートカットには慣れない。どこかの誰かを想起させる髪形だからだ。後ろ姿だけ見たらヴェルトが二人いるように、……あ、そうか。さっきヴェルトの横顔を見て誰かに似ていると思ったけれど、短髪にしたレモアに似ていたんだ。なるほど、納得。
でも、作る表情は全然違う。ヴェルトはこんな弛緩した顔はしない。
「うく、うくく。リリィさん、リリィさん!」
「な、何?」
顔が近い。
「今から、ボクの部屋に来て、くれませんかあ? うくく。きっと、楽しいです。ボクは、楽しいことを思いついてしまったので」
「今から?」
私は壁に掛けてある時計を見つめた。
就寝時刻は過ぎている。マムに見つかったら明日の朝はお説教から始まるだろう。どんよりな一日を迎えるのは本意ではない。けれど、レモアと二人で話ができる機会もなかなかない。私たちが追いかけると霞のように指の隙間をすり抜けていく彼女とじっくり話ができるなら、それはありかもしれない。
「うん。いいよ。あんまり夜更かししない程度にね」
「ほ、ホント? リリィさん、ホントお? やったあ。やったね」
「そんなに喜ぶことかな」
話をするだけでこれだけ喜ばれると少し罪悪感がある。私はレモアが欲している話とやらに正しく答えられる出来るだろうか?
でも、次のレモアのセリフを聞いて、そんな心配は杞憂だと悟った。
「恋バナ、しましょ!」
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