第89話 国を支える技術
梢の街の上空は今日も分厚い雲が層を作っていた。生ごみが渇いたような異臭も健在で、この街で生きていくにはまず、この重く停滞する空気と折り合いを付けなければいけないらしい。
石畳の上の水たまりを避けて、私はヴェルトと製紙工場の入り口を目指す。いつものようにガロンの定位置は私の胸元である。ガロンも童話の国の製紙技術についての知識はなく、うんちくが披露できないのが悔しそうだった。
「いいか、この歳になったって初めて見ることってのはあるんだ。知らないことは恥じゃねぇ!」
「はいはい。そう言うことにしておこうね」
「おいコラ嬢ちゃん。歴史の国の騎士を馬鹿にしてるな!」
「元、でしょ?」
「……お前ら、人前で騒ぐなよ」
製紙工場の正門は童話城の正門と同じように兵士に守られていた。背の高い石の壁に囲まれていて、入り口は鉄門一つらしい。童話の国の軍服に身を包んだ屈強な兵士が、ギラリと目を光らせていた。童話の国の重要拠点であることが窺い知れる。
ブラッドリーと言う名前を出すと、目立った問題もなく、屈強な兵士の前を素通りできた。
「意外と拍子抜けだね」
「それだけ孤児院と製紙工場の関係は密なのかもしれない。利益を得ているわけでもない孤児院を維持するなら、どこかからの援助は必要不可欠だからな」
応接室に案内されてお茶まで出されたことで気を緩め、私はヴェルトとそんな話をした。
慈善事業にはお金がかかる。世知辛い話だ。ポラーノ氏の財がいくら莫大でも、継続的に消費していくだけではいつか終わりが見えてしまう、ということだろう。
「こんにちは。お待たせしてしまいました」
しばし待たされて現れたのは、白髪交じりの背の高い男だった。
細い瞳を隠すように、小さな丸い眼鏡が鼻の頭に乗っている。服装といい話し方といい、高貴な雰囲気が漂っていた。胸元には、お父様から頂ける栄誉あるブローチが輝いている。
「ブラッドリーです。ウィルマ……、ポラーノ孤児院のマムからお話は聞いています。旅の方だというのに紙を作ることに興味があるなんてね。……いや、失礼。存分に楽しんで行ってください」
「ありがとうございます」
大人感の強い大人だ。ヴェルトともマムとも違うし、お父様やグスタフとも違う。逆に言えば、今ここで、私は大人扱いされているのだと思うと、掌に汗が滲んだ。
「ところで」
ゆったりした調子でブラッドリーさんは部屋の中に入って来た。
「兵隊さんに捕まっていたこの子は、もしかして君たちのお友達かな?」
「お友達?」
ブラッドリーさんに促されるように少女が一人入って来た。
毛むくじゃらの妖怪の様な風体。綺麗なブラウスと対照的な使い古したサンダル。髪の毛の奥の瞳が、爬虫類のそれのようにギョロっとと動いた。
「「レモア!」」
そこに立っていたのは、髪の毛の妖怪なんかではもちろんなくて、ポラーノ孤児院の異端児、レモアその人だった。
「あ、ヴェルトだあ」
間の抜けた声が、応接室に響く。
「ボクも、ボクもね、工場の見学、行きたかったんだあ。一緒に行こうよ」
どういうつもりなのかと聞かれたら、きっとそう言うつもりなのだろう。
「ヴェルトお、ヴェルトお」
「おい、あんまりくっついて来るな。歩きにくいだろ」
「ヴェルトお、あれなんだろう。面白そうだよ。――うくく。楽しいねえ」
工場内の通路を、四人で進む。その組み合わせに私は異議を申し立てたい。
どうしてヴェルトとレモアが先頭で二人並び、私とブラッドリーさんがその様子を後ろから眺めなければいけないのか。しかも、レモアはヴェルトの腕に自分の腕を絡めようとしている。ヴェルトが嫌がっているにもかかわらず、押しに弱いヴェルトをパワーで取り込んでしまおうという作戦なのだ。
「まさに、大胆不敵って感じだな。ガッハッハ」
「黙って、ガロン。ブツよ」
反論を聞くことなく、ガロンに八つ当たりの拳を下ろした。隣のブラッドリーさんが怪訝な顔をしたけれど、追及してくることはなかった。レモアの同行を許可してくれたことといい、この人見かけ通り、器の大きい人間だ。
「本来ならお引き取り願うところなんですがね、私は今日非番でお仕事ではない。小さな子供の我儘ぐらい、通してやりますよ」
「ご迷惑かけて、すみません」
私は目の前ではしゃぐ二人を視界の端に入れながら頭を下げた。こういうのは本来ヴェルトの役割であるはずなのに……。
工場は、大きく三つの区画に別れていた。木材をチップと呼ばれる木くずに変換する場所、チップに薬品を加え繊維のみを抜き出す場所、そして繊維を圧縮し漂白する場所。一つの区画が童話城ほどの面積を有しており、歩いて回るのはとても大変だ。そこで登場するのがトロッコである。場内には工場同士を繋ぐようにレールが引いてあり、その上を四人乗りのトロッコが走っている。
「この場所が国の製紙工場に選ばれた理由は、周りが針葉樹の森だったからです」
ブラッドリーさんはこの工場の責任者をされているとても偉い人らしい。おまけに梢の街の町長も兼任しているという。
紙を作る工程からこの工場の歴史まで、すべてに精通しており、飽きさせるという言葉は似合わない。街を漂っていた生ごみを乾燥させたようなあの臭いは、どうやら紙を漂白する時の薬剤臭いだということも、ブラッドリーさんから聞いた知識だ。人間への害を無くすため、あのような臭いになっているんだって。
「臭いは仕方がないんですよ。死ぬか臭いかを選べと言われたら、大抵の人は臭いを選んでしまいます。そう言うことです」
童話の国が毎年出版する大量の童話を賄うために、この街の人たちには不自由を強いている。自分が無邪気に楽しんでいた裏側に、知らない誰かの不幸な現実が存在するのを知って、少し胸が痛んだ。
「そんなに気に病む必要はありません。童話王は大変心を痛んでおられます。工場を含めこの街の住人には、あまりある財を提供してくれているのです。ありがたいことです」
誰かが不幸を背負わなければいけない……。お父様もそれをわかったうえで、それでも必要だから、この工場を建てた。お詫びの気持ちを込めて、心ばかりの工面をする。
「童話とは、奥が深いですね」
「はい」
お母様の言葉通り、世界を知ることで世界が広がる。童話が好きだと言っている私でも、童話の成り立ちなんてちっとも理解していなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます