第34話 師匠から弟子へ……
「ふぅー」
ゆっくりと緊張を解いたヴェルトの姿を見て、私も肩がガチガチに固まっていたことを思い出した。力を抜くと、すとんと腰が落ちた。朝露に濡れた道草のせいでお尻にジワリとシミができる。
ヴェルトの視線は、膝をついて咳き込む師匠へと向いていた。
「この程度のゴロツキにも勝てないなんて。弱くなったな、師匠」
「たわけ。わざと負けたに決まっているだろうが。ふん、貴様の手など借りなくても、この程度の輩、俺一人で何とかしていた――っがはっ!」
「おい、師匠っ!」
「レゾさんっ!」
辛そうに立ち上がろうとする姿を見て、私の足には再び力が戻って来た。
強がっているのは目に見えている。意識を保っているだけでもやっとだろう。あれだけ殴られたのだ、四の五の言っている場合じゃない。
「びょ、病院! 病院行こ!? 沼の町にお医者様がいたはずだから!」
「黙っとれ。これぐらい……なんとも……」
「師匠」
ヴェルトは、レゾさんの言葉を遮って続けた。
「そろそろ俺にも心配させてくれ。俺は強くなった。一人で生きていくことも。誰かを守ることもできるようになった。師匠が俺に教えたことは、すべて俺の中で生きている。無駄な事なんてなかったし、師匠の教えは正しかった。もういいだろ。意地張り続けるのも疲れただろ」
「ば、馬鹿を言うな……。誰が意地なんて。これが俺の性格だ。文句あるか」
「文句あるさ! 俺がどれだけ師匠のこと考えてたと思っている。何のために俺がここへ来たか言っただろ。この世界から師匠を見つけるの、どれだけ大変だったと思っている。湖の村を去ってから六年だ。六年もかかったんだ。それだけ――」
ヴェルトは吐き出すように言い切った。
「それだけ心配してたんだよ! 師匠は俺の父親なんだよ! 親父を心配して何が悪い!」
「……」
「師匠は俺のこと嫌いなのかもしれないけど、それでもいいと思えるくらい、俺は師匠を尊敬していた。こんなところで無様にくたばっていてほしくなんかないんだ。たまには弟子の言うことを聞いてくれ!」
ヴェルトの語りは、途中から叫びへと形を変えていた。積み上げた想いを言葉に変え、あらん限りの声が響く。感情を込めて怒鳴りつけるヴェルトの姿は、今まで見たどんな場面よりも人間的だった。
「……小僧、いつからそんなに偉くなったんだ」
「師匠――」
少しの間、二人の間で睨み合った後、ふいにレゾさんの顔がこちらに向いた。
「お嬢さん。すまないが、俺を病院へ連れて行ってくれないか? 身体のあちこちが言うこときかない」
「えっ? え!?」
「駄目かね?」
「う、ううん。全然だめじゃない! 早く行こう!」
レゾさんは私の瞳を見つめて静かにそう言った。それから、宝石のようにきらきら光る瞳を、生涯最後の愛弟子へと向ける。
「ヴェルト。俺からの最後の指導をしてやる。二つだ。今から言う二つのことができたら。お前は免許皆伝だ」
レゾさんがヴェルトの名前を呼んだ。その事実を理解するのに私の頭は随分と時間がかかってしまった。
「一つ目は、俺から、お前の記憶を抜き取れ」
「師匠……」
「別に、トラウマとか、人嫌いを治したいとか、そんな面倒くさいことのために抜き取るんじゃない。もちろん、ヴェルト、お前を助けるためでもない。それが、俺にとって今一番やりたいことだからだ」
「……」
「それからもう一つ。俺の記憶からできた物語を、必ず読め。どんな内容が書いてあっても、どんな物語が書いてあっても、一字一句漏らさず、お前が読め。いいか?」
「俺が、読む?」
それはつまり……。
私は、さっきまでしていたレゾさんとの会話を思い出す。この老人はずっとヴェルトのことを考えていた。教えたことを後悔して、導けなかったことを懺悔して、再び会えたことに喜んで、成長した姿を心配した。師弟関係を超越した、もっと愛のある関係。胸の内にこっそり囲い、プライドという感情で誤魔化した、彼がずっと隠して来た本当の想い。
思い出を、消す。ううん、違う。思い出を、渡す。記憶を手渡し読んでもらう。
堅物で引っ込みがつかなくなったプライドの高い元師匠が考え出した、たった一つ、想いを伝える手段。
それが、キャメロンの魔法。
レゾさんも、ようやく素直になれたんだ。
「あ……」
言葉に出しかけて、慌てて口を抑えた。気付いてしまった本心を、私が明かしてはいけない。
これは、レゾさんの物語で、ヴェルトに向けられた物語だからだ。私が横から口に出すことほど、レゾさんの記憶から作られる物語への不純物はない。
自分の中に思い出を残しておくよりも、その気持ちを相手に伝えようとした決意に、私は敬意を示す。
訝しむヴェルトがご老体を背中に背負う。
「軽いな、師匠」
「……黙って運べ」
こじれて歪み絡まった師弟関係は、長い年月の末、キャメロンの魔法によってそのわだかまりから解放された。
他人の思い出を奪い取ってしまう悲劇の魔法。童話の国の供物にしかならず、何人もの人間を犠牲にするはずのその魔法が、初めて人の役に立った。
こんな使い方も素敵だと、私は思う。
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