3-4

 扉を潜るデニスの後姿を眺めながら、美空はそのまま集会場を振り仰いだ。分厚い雲が流れゆく中、差し込む光を鈍く重く受け止めている。土埃に塗れてはいたが、緑と茶ばかりの風景の中、彩度のない灰色はやはり浮いて見えた。

 島の中でコンクリート造りの建物はあと一つ、医療舎だけ。そういえば、倉庫もコンクリートで出来ていたか。

 集会場と医療舎と倉庫。この三カ所だけは電気も使える。電気は島の周囲に張り巡らされた発電機で生み出され、集会場の地下に溜めているのだと松木はいつか教えてくれた。

 その他の建物では電気は使えない。灯りには魚の油を使っていると、椿の油は量はとても少ないんだと。……だから灯りを使うと魚臭くなっちゃうの、と肩をすくめていつかフカミは言っていた。

 子供舎、農舎、漁舎に食堂。集会場と医療舎を除けば、島のまともな建物はそれで全てだ。それらは全てプレハブ作りで、常にどこかしらを補修していた。現に今も美空が眺めるその前で、補修担当が食堂の壁を取り替えていた。

 その他といえば木材やバナナの葉を使った掘っ立て小屋が多かった。美空にも島人が……建築など知らない素人が作ったのだと一目で知れる程度の出来だ。

 島にコンクリートがあるはずもなく。鉄筋などの建材だってあるわけがない。これらは全て、一番最初に建てられたものだ。──基地として。

 思い出すのは新聞記事だ。ショッキングな見出しが、当時随分と長い間紙面を賑わわせていたようだった。

 けれど。

 視界を転じれば、バナナの畑が広がっている。眼下の入り江には幾つもの舟が浮かび、鮮やかな水しぶきが弧を描いて生まれて消えた。住まうのはごく普通の人々で。あるのはごく当たり前の生活だ。

 ふと。食堂から女性が二人顔を出した。美空に気付くとふいに笑顔が凍り付く。談笑が途絶え、進める歩みは早くなり。あっという間に何処かへと去って行く。

 こんなところも、どこも同じ。

 マスクの奥、苦い微笑がつい漏れた。女性たちのあの様子は、クラスメイトによく似ている。トイレで噂話に花を咲かせたその後に、外で鉢合わせしたかのような。

 それとも。美空は白い手袋を見る。学校の制服を脱いでも何も代わりはしないけれど。この手袋を取ってしまえば。フードを取り去り、防護服を脱ぎ捨てれば。何か変わるだろうか。……ここでなら?

「ミソラ? ……ミソラだ!」

「……ショウゴくん」

 小柄な影が突進してくる。空のバケツを振り回し。あっという間に目の前にいた。

「ひさしぶりだな!」

 ごつん。……避ける間もなかった。

 ショウゴは額を押さえて蹲る。美空は低く呻いて足を引いた。……覗き込もうとしたゴーグルに、勢い余ってぶつかるなど。痛いのはぶつかられた美空も同じだ。

 失敗失敗。言いつつめげる様子はなかった。ぴょんと飛び起き、てへへと笑う。……その仕草がおかしくて。

 漏れた声に自分で耳を疑った。目に涙を浮かべたショウゴもやがて。

 ──久しぶりに笑った気がする。

「めっずらしいよな、ミソラがぼーっとしてるなんて」

「ぼーっとしてたわけじゃないわ」

 美空は肩をふるわせたまま医療舎をちらりと窺う。用があると入って行ったフカミはまだ出てこない。

「ショウゴ?」

「あ」

 ショウゴは思い切り背後を振り返った。美空もつられて声の主へと視線を向ける。

 目を見張った。……大きい。

 省吾よりも遥かに。船の誰よりも高く。大きな。

「エリック!」

 浅黒い肌をしていた。髪も黒く、瞳の色も黒だった。

 美空を認め、少しばかり驚いたような顔になる。

 少しばかり主張の強い顔立ちをしていた。テレビに出てくる東南アジアの人のイメージと言われればなるほどと思う。見上げるほども高い背に、広い肩に太い腕。美空など簡単に締め上げてしまえそうな、その、筋肉。聞いた以上の大男。

 少なくとも美空は一目で外国人と思う。初日に海辺に見た男に間違いない。

「紹介するよ! ミソラ、エリック」

 ──紹介、と言われても。

「エリック。ホシンのミソラ」

 笑いかけられ、つられてマスクの奥で笑い返した。じっと見られて、美空は焦って言葉を探す。

 快活そうな目が興味津々とばかりにじっと美空を見下ろしてくる。ホシン? と僅かに首を傾げた。

「そー。ホンドから来たんだぜ!」

 オウム返しのようにホンド、と。……言って再びしげしげと、美空を防護服を、眺め回す。

 ……居心地は、余り、よくない。

「白い。かみさま、の、お遣い」

「そーそー。ホンドの神様の!」

 何処まで思っていることか。ショウゴの軽い声が響くと。

 エリックは一歩下がって……両膝を着いた。

「エリック!?」

「エリック、さん!?」

 見ている前で深々とお辞儀をしてみせる。……通りかかった人が皆、何事かと遠巻きに。

「立って下さいっ」

 きょとんと美空を見上げてくる。どうしてと顔が言っている。 

「そう言うのじゃないですからっ」

 片手をとれば、もう片方をショウゴが取る。引きずり立たせるような気持ちで、ようやく腰を上げさせて。

「うやまう。大事」

 なおも、きょとん、と。

 ホシンは神の遣い。神の遣いは敬うもの。敬うこととは膝を突いて頭を下げて、気持ちを示してみせること。……そんな風にでも思っているのか。

「ミソラはホシンだけど」

 悪戯っぽくショウゴは笑う。エリックの左手を離し、至近で見上げる。

「普通の女の子なんだぜ」

 美空よりまだ低い背をちょっと伸ばして。美空の顔へと手を伸ばし。

「ショウゴくん!」

 慌てて下がってかけなおす。……それくらいでどうにかなるとも思わなかったが、見られて良いものではないはずで。

 Oh... 溜息のような声が、頭の上から降ってきた。

「Why?」

 ──何故そんな格好を? ……そんなところだろうか。

「私は、島人じゃない、から」

 言葉は尻すぼみになった。……言葉にしたくない言葉だった。

 島で暮らすわけではないから。一時的に立ち寄るだけの存在だから。東京で作られた規則の下で、防護服着用は保守監視員の義務だから。とは、声に出しては言わないけれど。

 私は島の子なのだ、と。胸を張れたらいい、のに。

 なおもエリックは首を傾げ、興味津々、視線をこちらへ向けてくる。……ゴーグルの内側を探るように。

「ホンド……ニホン。トーキョー?」

「ニホン?」

 ショウゴがきょとんとする中で、美空はこくりと頷いてみせる。普通ならそう思うだろう。島人でなく、外国人なら。

「東京から来るの。年に二回」

 エリックはうん、と頷いた。頷き、再び。

「ミソラ、小さい。お遣い。かみさま……Oh! ミコ!」

 なにやら唱えてみたかと思えば、合点がいったとばかりに手を叩いてみせた。美空を見る瞳が嬉々と。

 それって?

 日本語だったが、意味が。

「ミコって?」

見上げるショウゴへ、エリックは、さも嬉しそうに。

「かみさま、遣える。シンジ、する。袴、マイヒメ、サカキ、オミキ、ジンツーリキ」

 ──巫女。

 ショウゴの顔は疑問で溢れそうになっていた、が。

 榊を介した神通力を武器に、緋袴で戦う巫女のアニメが少し前に流行ったような気がしないでもなく。今は海外放映もされているとかいないとか──。

「ち、ちがう。そう言うのでもないの!」

 慌てて美空は首を振る。……他に誰も見ていないから。そっとゴーグルを上にずらして。

 見上げた先の黒い瞳は笑んでいた。

「お仕事なの。私はまだ子供だけど。これでもお仕事をしてるの」

「島ノ、タメ?」

「島の」

 ……聞かれて素直に頷けなくて。

「そー!」

「……エリックさんは、なんで島に」 

 脳天気に答えたのはショウゴだった。美空は素知らぬ顔で、別の話題を口にする。

「事故で、ヨツバさんに助けて貰ったって聞きました」

 ゴーグルをかけ直して。ゴーグル越しに。

「……なんで島人になったんですか」

 ゴーグル越しだったけれど。目を合わせたままエリックは、ふっと淡く笑んだ。

「...Divine guidance」

 知らない言葉だった。ショウゴはどうかと見てみれば、明後日の方を見て大あくびをしたところだった。

 美空はエリックを見返した。エリックは、にこりと……笑みを人懐こそうなものへと変えた。

「助けてくれた。恩、返す」

 やっべー! ショウゴが頓狂な声を上げる。振り返ったエリックへと身振り手振りで。……サボっているのが見つかった、まずい、早く行かないと。

 つけたアタリはそう間違ってはいまい。

「ミソラ、またな!」

「ハカマ! 白い! ツギ!」

 慌てたように、賑々しく。ついでになんか言われたような気がしないでもないが、嵐のように去って行った。

 恩。……それだけで。いや。

 理由なんて、そんなものだ。……そんなものでも、島人に。この、島に。

「おまたせー!」

 声に振り返った。医療舎から小走りで近寄って来るフカミを目に留め、そしてふと、その脇が目に入った。

 医療舎の脇には屋根を広くとった駐車場のような場所がある。堂と呼ばれる、さよならの式を行う場所だ。医療舎付属の施設だと美空は認識している。……棺を納める場所だと聞いたことがあるのだが。

 倉庫の、真上。

 倉庫、その上の堂、そして、背後の集会場。──一直線に並ぶ、その配置。

「どうしたの?」

 健康的な小麦色のよくよく見知った相貌が、少しばかり不思議そうに、来た道を振り返った。

「なんでもない。行こう!」

 首を振って引っかかりを無理矢理追い出し、フカミを促し歩き出す。坂を上り、頂上に建つ集会場へと。

 なんだろう。……引っかかりは、まるで空気を掴むようで。

「呼んでるってなぁに?」

 軽く問われて、瞬いた。理由と気付いて……道ばたの雑草とか、踏み固められた土道だとか。ぼんやりぼんやり目に収める。

 ──助けてくれた。

 元々はもっと気楽なものだった。半年に一度会うだけでなく、普段の日もちょっとしたことで話ができたなら。

 お父さんのこと。省吾お兄ちゃんのこと。お母さんのこと。ショウゴくんのこと。フカミちゃん自身のこと。海の色。魚の味。バナナの具合。天気の話。星や月のこと。赤ちゃんが生まれただとか、だれそれが怪我してしまったとか。……他愛もないことを、もっと、沢山。

 そう、思ってみただけなのに。

 ──恩、返す。

 真っ直ぐで綺麗な笑顔だった。 

「エリックさんって面白いね」

「うん。ジョアンナもいい人だし、デニスも見た目は恐いけど、すごくいい人」

 フカミは遠く空を見ながら呟くように言う。……だから。

 意味、あるのかな。

 思わずにはいられない。 

 並んで集会場の横まで来る。正面へ回ろうとするフカミへ、美空はこっちだからと示してみせた。

「……裏?」

 フカミが瞬く。怪訝そうな顔の怪訝そうな目が。じっと美空を伺ってくる。

 美空は歩みを止めた。一度だけ、明後日の方向を見た。唇を噛む。

「あのね」

 もう美空の幼稚な考えなど何処にもなかった。美空にはまだ理解し切れてはいないけれど。省吾と松木の確固と抱いた理由の下で動いている。

 だから。

 フカミを見る。正面から。そしてはっきり言葉にする。

「覚えて欲しいことがあるの」

「覚えること?」

 フカミはきょとんと小首を傾げた。ふいに吹き寄せた風に結い上げた髪が奔放に散り。面倒くさそうに抑えつけた。

「それでね」

 先に立って歩き出す。草むらに薄く伸びた裏へと続く獣道を。

 ……この道を選ぶのは、後ろ暗さの表れでもある。

「このこと全部秘密なの」

「秘密?」

 声に僅かに振り返り、美空はしっかと頷いてみせる。

「私達が呼んだことも、これから覚えてもらう事も、全部」

 島長にも、シノにも。何でも話してしまいそうなショウゴはもちろん、あの三人にも。島の誰にも。

 裏まで回り込み、重い戸を引き開ける。長らく使われなかった扉にきぃと低く啼かれたけれど。小部屋に籠もっているミツやシノ、曽田に谷村、呼ばれて入ったデニスにも、聞こえまい。

「フカミちゃんだけなの」

 ──不安にも似た予感を、任せることができるのは。


 *


 フカミは白い姿を黙って見上げる。美空は言葉少なに、階段を静かに上がっていく。

 どうかしたの、と。再び問えば、違う答えが返ってくるだろうか。……白いホシンの姿では、表情すらも見えなくて。

 二階に立つ。美空は迷わず左に折れる。慌ててフカミは最後の数歩を駆け上がる。向かうのが知らない部屋だと、わかったから。

 集会場の二階といえば、フカミには記録庫の印象しかなかった。シノの学校で使われる道具もここにあり、島が出来た当時の記録もあるという。

 島人のご多分に漏れず、フカミも文字の読み書きが苦手だった。仮名くらいはなんとか不自由してないが、日常で使うことでもない。記録庫も入ったことがないわけではなかったが、なじみの場所とはとても言えない。……島長を継ぐ可能性のあるフカミに、勉強しろとシノは常々言うのだけど。

 記録庫の他にも扉があることくらいは知っていた。けれど、忍び込んだ幼い頃、シノを手伝い始めた後になっても鍵が開いていた事はなく。

 その一つが今、開いていた。

 前を見ても左右を見ても、触って良いものとも思えなかった。銀色に鈍く明かりを返す四角い箱が所狭しと並んでいる。触れば指跡くらい残りそうだ。所々穴でも開いているかのように、赤や緑や青い光が漏れている。光の形が変わる小窓もあった。刻々とうねる線が形を変えるものもあった。

 なに、これ……?

 そんなものに囲まれた部屋の中に、省吾と年配のホシンがいた。二人ともフードを取ったまま、フカミを待っていた、ようだった。じっと。

「おや、さすがによく似てるね」

 丸っこい年配のホシンは松木と名乗った。やわらかい表情でのんびりとフカミを見る。

「双子ですからね」

 省吾は久しぶりだねと、フカミへ笑みを向けた。

 美空はフードを取って二人へ並んだ。切りそろえられた髪がさらりと舞った。

 見たこともない数々の銀色の『何か』と。汚れのない白いホシンの姿はしごく似ているように思われて。整った美空の髪も、無精髭一つ無い松木の顎も、軟弱にすら見える省吾の頬も。

 ホンドの人たち、なんだ。

 ぼんやり思う。……自分たちとは、違う人たち。

 百年経ったら。掟が、消えたら。

 ──フカミは、どうしたい?

 言葉が蘇る。寂しげな口元まで、一緒に。けれど。

 どうしたいもなにも……違いすぎて。

「これでね」

 言葉に目を瞬いた。目の前に手のひらより幾ばくか大きい、板のようなものが差し出されていた。こつんとどこかに打ち付けたら、簡単に傷でも付きそうな。

 受け取るべきか迷うフカミの手を取り、美空はそっと握らせた。木とも石とも違う触感が手の中にあった。

「何かあったときに僕らに連絡して欲しいんだ」

 連絡? ……どうやって?

 走っていけるわけでもない。ホンドは遙か海の彼方。ヨツバでさえ、辿り着いたことはないというのに。

「あのね、電話って言うの。離れた場所にいても、お話し出来るの」

 大声を張るということ、だろうか?

「うん、まぁ、説明は後でゆっくりするけれどね」

 船の電話が使えるかな? 松木はのんびり呟いた。

「何か、あったとき?」

 ふと言葉が切れた。問いかけるように美空は省吾を見上げ、迷うように省吾は視線をさまよわせる。

 きぃぃんとどこで鳴っているのかわからない静寂にも似た音が部屋を満たした。

 この音を知っている、気がする……?

「何があるか、僕らも正直わからない」

 結局、静寂を破ったのは省吾だった。

「ただ……何かがあった場合に、半年に一度、僕らが訪れるタイミングでは遅すぎると思うんだ」

「『神殿』に手が入れば、自衛隊が飛んでくるけどね」

 ……省吾の顔が強ばった。松木はそれには返さず。よっこらせ、とかけ声付きで腰を上げる。

「船まで行ってくるから、掛かったら取ってね」

 行ってらっしゃいと手を振るのは美空だけだ。

「フカミちゃん」

 笑みのない声だった。フカミは探るように省吾を見る。

「ジョアンナって言ったっけ。デニスと……」

「エリック」

 そうそう。省吾は頷いてみせる。……三人が? 疑問は顔に出ていただろうか。

「彼等のことを警戒していると言ったら、何となくわかるかな」

 わかるはずがない。

「いい人達よ。真面目だし、頭も良いし」

 ……ショウゴのように懐いたり、手放しの笑顔は作れそうにはなかったけれど。

 うん。省吾はフカミを見ながら一つ頷く。

 頷いて。

 ゆっくりゆっくり、話し始めた。

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