第85話 お忍びの貴婦人




 ヴァヴロナ――――――それはエウロパ圏を北に持ち、ファルマズィ=ヴァ=ハールやジウ王国などを南に見る、中間的に位置するドゥーマシュスアル圏、通称ドゥーマ圏と呼ばれる地域にある国家である。




「さすがヴァヴロナです~。中央から離れた北端の都市も、こんなに賑わっているのですねぇ」

「アンネス様、あまり軽々に動かれないでください」

 ターリクィン皇国の貴族夫人アンネス=リンド=ローディクスは従者を連れて、そのヴァヴロナ国北の地方都市シェスキヒルに来ていた。


「フフ、ごめんなさい。つい楽しくてはしゃいでしまいました~」

 女性侍従は、勘弁してくださいと言わんばかりにため息をつく。確かにアンネスはまだ22歳と若く、年のころでいえば町に繰り出して遊びたい盛りだろう。


 しかし彼女はターリクィン皇国元宰相にして皇帝相談役の一人、ローディクス卿の妻なのだ。

 身分を隠してのお忍びとはいえ、然るべき態度と節度を持ってもらいたいと、お付きの者全員が疲労感を露わにしていた。


 しかし、彼らは知らない。


 アンネスにとって外の世界を安全に旅するという経験は、これが生まれて初めてなのだということを。




 今でこそアンネスは、ローディクス卿という大権力者の妻である。


 だがその過去は壮絶だ。アサマラの兵産院での日々、我が子を連れて必死の逃亡生活、そしてローディクス卿に拾われてからも、いつか追手が来るのではないかと怯え、精神疾患PTSDに苦しんだ。

 加えて治す事の叶わない、どうしようもなく沸き起こる快楽依存症と向き合いながら、我が子らの未来のためにローディクス卿という皇国最上位に近い地位を持つ夫の妻となり、相応しい教養を習っては社交界でその名と顔を売る日々……

 (※「第15話 ターリクィン皇国の嫋やかなる貴婦人」参照)


 彼女が何の気兼ねもなく幸福な外出という時間を持ったのは、生れて22年の中で初めてのこと――――――家から外に出た世界を始めてみる幼子のように、テンションが上がってしまうのも無理からぬことだった。




「お気をつけください、ウワサでは南方の国々では魔物が活発になっているとのこと……その流れがこの辺りまでいつ広がってこないとも限りませんし、軽率な行動はお控えください」

「奥様の身に何かございましたら、ご主人様に合わす顔がございませぬ」

 侍従や護衛兵の窘めに、はぁいと返事をしながらドレスの裾をひるがえし、ペロっと舌を出すアンネス。貴族夫人としてややはしたない態度ながら、不思議と彼女がするとその一連の所作すら品があるように、供の者達には見えていた。



「奥様、ただいま戻りましてございます。ご滞在のためのお宿の手配が整いました」

 侍従の一人が、兵士1名と一緒にアンネス達のもとまで駆けてくる。

 豪華な馬車を降りて、噴水のある広場でのんびり英気を養っていたお供達が一斉に立ち上がるも、アンネスだけは腰かけたまま微笑んでいた。


「ご苦労様でしたぁ。では皆さん、一度お宿の方に参りましょう~」

「「はっ!」」

 旅行の荷もある。街を観光するにしても、なるべく身軽になってからの方が良いに決まっている。

 加えて、主人である自分がまず安全を確保した場所に向かうことで、その間に従者たちがこの街中に危険がないか詳しく調査する時間ができる。


 何せアンネスはローディクス卿の妻だ。命狙う者、害せんとする者がいないとは限らない。アンネス一人の旅行に、50人の兵士と15人もの侍従が同行させられている事からも、そうした危険の可能性はゼロではないということだ。


 この旅行は、拾ってからずっと貴族社会に押し込められる形になったアンネスを気遣った、夫ローディクス卿の心遣いだ。子供達も安全な豪邸の中、夫や家人達に見てもらえている。


 今の身分は、どこまでいっても最上位貴族の夫人。何をするにしてもその前提を強いられるのは致し方なく、彼女自身も受け入れている。


 しかしアンネスにとって、身分立場がいかにあろうとも、決して譲れない部分もあった。



 ――― おぎゃあっ、おぎゃあっ、おぎゃあっ ―――



「? あ、奥様、どちらへっ!?」





  ・


  ・


  ・


 噴水のある公園の隅で一組の夫婦が困っていた。傍に3人ほどついている侍女たちも皆、慌てふためいている。


「なんということかしら、まさかせっかくのお出かけでしたのに……」

「申し訳ございません奥様、いま探させておりますゆえいましばらくお待ちをっ」

「泣き止んでおくれ我が息子よ。むむ……、これまでは大人しかったのに。しかしまさかミルクを忘れていたとは、出る時に確認していたはずなのだが」

 困り果てているのはどこかの貴族と思われる若い夫婦だった。


 連れている赤子が泣き始めたのはミルクの時間―――お腹が空いたから。


 しかし困ったことに、母親である夫人は乳の出の悪い女性。なので赤ん坊を連れて出かける時は荷物に粉ミルクを欠かさないというのに、今日に限って用意に不備があった。


 侍従の何人かが粉ミルクを求めてシェスキヒルの街を駆けずり回っているが、戻ってくるまであとどれくらいかかるかも分からない。



「……もし~、よろしければぁ、わたくしがお与え致しましょうかぁ~?」

「え? …あ、あの、貴女様は?」

「アンネスと申します~、以後お見知りおきを。……お困りのようでしたし、お子様も大変お腹をすかせていらっしゃるようですので~、見るに見かねましてぇ」

 夫人は、自分の子供とアンネスを見比べ、そして夫を見る。このまま赤子が泣き続ければ周囲の迷惑になるし、何より目立ってしまう。

 貴族の者としては悪目立ちするのは憚りたいという気持ちもあり、夫も妻に頷き返した。



「はぁ~い、では少しの間失礼致しますねぇ。よぉしよし~、大丈夫ですよぉ……お腹すきましたねぇ? はぁいど~ぞ~、遠慮はいりませんよ~たくさん飲んでくださいねぇ」

 大きく、形の良い乳房。伊達にこの年で二人も産んでいないアンネスは、流れるように自分の乳首を赤子の口にハメ込む。泣く赤子の口の動きまでも計算にいれたタイミングでの見事な流れだ。

 それは単に経産婦というだけでなく、あの忌々しいアサマラの兵産院での経験も、皮肉なことに役立っていた。


「(っ……出てこないで・・・・・・……あなた達とは違います…っ)」

 一瞬、乳を吸う赤子に重なるように、フラッシュバックするギラついた男の顔。いまだ拭いきれないこびりつくようなトラウマが、嫌な幻覚を彼女に見せる。


 だがアンネスにとって赤子とは、何を差し置いても守りたいものだった。それはかつて我が子の手を引き、腹に宿した身で長い逃亡の道を歩いた、その精神を支えた存在。

 だからなのか、アンネスはローディクス卿の庇護下で二人目を生み落とした後も、乳の出はまったく止まらなかった。

 家人達の中に子を成した者がいれば惜しみなく与える乳母のようなこともした。


 たとえ誰とも知らない他人の子であっても、困っているのであれば我が乳を飲ませる―――それはアンネスの精神を支える根底からくる彼女自身をも癒す愛であった。






「本当に、本当にありがとうございます。おかげで助かりました」

 たっぷりとアンネスの母乳を飲み、すっかり大人しくなった我が子を抱えながら、母親である貴族夫人はしきりに頭を下げながら礼を述べた。


「いいえ~、子供は宝物……これを助け、守るのは当然のことです~」

 急に見知らぬ貴族に話しかけた主人にやきもきしている従者たちを後ろに置いたまま、アンネスは恭しく返礼する。

 相手も明らかに貴族。ゆえにアンネスは自身も貴族夫人としてしかと振る舞った。


「いや、しかし本当に助かりました、アンネス様。どうにも義姉が嫁いで・・・・・気が抜けていたのやも……っと、すみません関係のないお話を」

 貴族にしては口が軽い。

 一見すると一人前の成年に見える夫婦だが、年齢は恐らく14~15の若年貴族といったところだろうと、アンネスは推測。


 夫人の方は細めではあるもののスタイルは良いし、胸のふくらみもそれなりだ。乳の出が悪いのは生来のものだろうか。


「あなた、そういう言い方はお姉ちゃんに失礼です、やっと幸せになれたのですから」

「ああ、すまない。悪い意味で漏らしたわけじゃないよ。ルシュティース・・・・・・・義姉さんには僕もよくしてもらっていたからね」

 見ず知らずの前で身内話をする―――まだまだお子様。


 だが好感は持てた。貴族社会は腹の探り合いが多いせいで、誰も彼も脇が固くて接しずらく、気疲れする。

 このくらい微笑ましい相手の方が気楽だ。アンネスは二人のやり取りを見て、クスクスと弾けるような笑顔をこぼした。





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