第20話 おじさん失踪事件

 謎の人物の、ノブをガチャガチャやる音以外は何もしないしんとした空間。思わず俺は息を飲んだ。心臓の鼓動も否応なしに早くなっていく。


 さっきまで斉藤に付いて行くぞという高揚感に満ちていた俺。しかし、この異様な空気に支配されていくにつれ、だんだんと我に返った気分になり、急にこんな所に来てしまったことを後悔した。


 今までだって、こんな妙なおじさんに探しに付き合わされて後悔の連続だったが、今回はそれまでの比ではない。下手をすれば棺桶、つまり命を落としかねない状況なのだ。奴が本当に泥棒、もとい強盗だったりなんてしたら、あの鞄にナイフやハンマーが入っていても全然おかしくないのだ。


 しかし、それでも俺はまだこの謎の人物が人違いだと信じていた。やはりあの人物はここの社員。一流企業の社員なら、やはり泥棒なんてやはりありえないことだからだ。そりゃこのご時勢、いくら一流企業に勤めているとはいえ、昼から中華やフレンチなんて豪勢なランチとはいかないだろうから、ただのコンビ二弁当なんてこともあり得るだろう。実際、この散らばっている弁当の亡骸たちは、ここの社員が捨てたのだろうという結論に先ほど至ったわけだし。


 そうなると、もしかしたら、あの謎の人物はこの弁当屑を捨てている張本人かもしれない。さっきの荒っぽい言葉や、横着のつもりなのか、裏口から入ろうとしているところを見るとその可能性は高い。


 その結論に至った結果、俺の心臓はゆっくりと落ち着きを取り戻してきた。そう、やはりあの謎の人物は人違い。泥棒なんかではないのだ。確かにマナーの悪い粗暴な奴かもしれないが、犯罪者というわけではない。なので、ここは大人しく他を当たった方がいい。


 なんだか無理やり目を背けようとしているような気もする。そもそも斉藤の推理通りなら目的のおじさんはその泥棒ということになる。それなのにここでビビッていてどうするというのか。変にさっきナイフやハンマーなんて考えたからこうなるのだ。


 とにかく、俺はこれ以上深く考えないことにした。それなのに斉藤はそんな俺のことなど露知らずといった感じで、鼻息を荒くしてマナー違反の社員に見入っている。


 斉藤よ、盛り上がっているところ悪いがそいつは人違いだよ。そんなマナーの悪い奴は放っておいて他を探そう。まあ、捕り物を一時中断して、貧乏会社の平社員ではあるけれど、マナーの悪い一流企業の社員様に一言物申したいというなら話は別だが・・・。


「ウヮァァァァー!!」


 俺が斉藤に声を掛けようとしたその時、斉藤は突如、耳を疑うような叫び声を上げ、そのままマナー違反の社員の方に向かって走り出した。そのあまりの唐突な叫びに、ゆっくり落ち着きを取り戻そうとしていた俺の心臓も急ブレーキ。後ろを走っている車がいたら、確実に追突ものだ。


 マナー違反の社員も当然、ガチャガチャやっていた手を止めてこちらを振り返った。その顔にはマスクが・・・。


 黒服に帽子、鞄、そしてマスク。これはもう疑う方が難しいくらい、さっきの泥棒に瓜二つの風貌だった。だが、それでも俺は信じなかった。この季節だ、マスクくらいする。黒服に帽子にマスクなんて、冬のポピュラーファッションじゃないか。それを一々疑っていては、コンビ二に立ち寄った客は全員犯罪者ということになる。 


 そうやって、人がせっかくあれこれ考え最良の答えを出そうとしているのに、斉藤はそんな俺の事など微塵も介さず、一心不乱にマナー違反の社員に向かって駆けていた。そして、そのまま対峙するのかと思った瞬間、あろうことか、そのままマナー違反の社員に向かって宙を舞い、勢いよく飛び付き、地面に押し倒してしまったのだった。


 思わず俺も走りだす。あいつ、本当に何を考えているんだ。見ず知らずの人にいきなり飛び付くなんて。いくら水原さんのためとはいえ、あまりに非常識すぎる。これじゃお前がマナー違反だ。


 マナー違反の社員は斉藤に馬乗りにされて、「うわっ!」とか、「やめろ!」とか言いながらバタバタともがいている。斉藤もそんな相手に向かって、「この!」とか、「くらえ!」などと言いながら、大人しくさせようとしていた。 


 いくらなんでもやり過ぎではないだろうか。この人物は泥棒じゃない、ただのマナーの悪い一社員なのだ。一事物申すためとしたとして、こうも激しくやられては、やりすぎだと言われても弁明の余地は無い。だが、あまりも激しい二人の攻防を前にして、入り込む余地もないのも事実。ここは情けないが、手を子招いて見ていることしかできそうにない。


 あたふたとしている俺が、頭を悩ませ立ち尽くしていたその時だった。取っ組み合う二人の後ろから、風が一筋吹いてきたのだ。その瞬間ハッとする俺・・・。


 どうやら、突き当りの塀の隙間から漏れた風らしい。風って本当に僅かな隙間でも入り込んでくるよな。まさに隙間風。風といいアスファルトの割れ目から生えてくる花といい自然の力は本当に凄いよな・・・。


 って、本当は今そんな事どうでもよかった。そんな自然の驚異より、先に気づいたことがあったのだ。


 風は俺の所に届く前、間にこのマナー違反の社員を挟んでいた。その為、この人物が発する匂いも同時に俺の元に届いていたのだ。もちろん、この状況だと二択になり、斉藤からその匂いが発せられる可能性もあるのだが、あいつもたまにこんな洒落づいてこんな匂いを発すこともあるにはあるけど、多分この匂いに限っては・・・。


「香水・・・」


 俺は無意識にそう呟いていた。そう、マナー違反の社員が発していた匂い。それは、さっきコンビ二で泥棒が走り際に残していった香水の匂いと全く同じだったのだ。


 天命来る・・・。まさかと思い、信じずに目を背けていた事が現実になってしまった。目の前の人物はコンビニ泥棒に間違いなかった。事実を目の当たりにした俺は、思わず天を仰いだが、目に入ったのは外階段の踊り場の裏面であった。おお、神よ!私は導いてはくれないのですか・・・!


 取っ組み合いは激しさを増す。何とかしなくてはと思ったが、あまりの激闘に入る隙は見つけれられなかった。


 しかし、この人物が泥棒だとしたら、このビルに入ろうとしていたところを見ると、ここの社員でもあるということになる。さっき斉藤が言っていた、取りあえずの逃げ場で態々あの階段の扉をこじ開けようとするのはやはり不自然だ。


 そして、必ずしもとは言えないが、この散らばった弁当箱からして、マナー違反の社員と泥棒は同一人物。つまり、この人物は弁当泥棒であり、その後食べた弁当かすを外に投げ捨てるマナーも悪い人物という中々の悪党だということだ。


 まあ、泥棒である以上、マナー違反も何もないかもしれないが、とにかくこの人物が危険な奴だという事は確定した。そりゃ斉藤は始めからこの人物が泥棒だと踏んで、取っ組み合いをしているのだろうが、だからといって、このまま指をくわえているわけにはいかない。       


 泥棒と確定した今、一気に棺桶が近づいてきたわけだが、このまま斉藤を置いていくわけにはいかないのだ。


「やめろよ!」


 と、泥棒が一際大きな声で抵抗した。狭いビルの間の為、声が反響して尚更大きく聞こえた。いくら人気のない所とはいえ、流石に往来の人に聞こえたのではないかと思ったその時、俺は今の声に違和感を感じた。


「若い・・・」


 そう、若いのだ。声がとてもおじさんとは思えないくらい若かったのだ。目元まで隠れた帽子と、マスクのせいで、年齢を推察することは困難だったが、マスク越しとはいえ、この声は誤魔化しようがない。


 斉藤の推理通りなら、この抵抗する人物は、俺たちが散々探し続けていた、例の禿げ頭のおじさんということになる。しかし、この声はどう考えても俺たちと同世代の声だ。


 いや、待てよ。その前にこのビルに入ろうとしている時点で、この会社の社員だとさっき気づいていたはずだ。その時点で、ホームレスという推理は外れだったわけだし、ホームレスではないということは、この人物がおじさんだという推理も怪しくなってくる。


 普通に考えればすぐに気がついたはずなのに、斉藤の勇み足のせいでこっちまで狂ってしまったらしい。さっきまで崇め腐っていた斉藤の推理にこんな言い方をするのは酷だが、現実は厳しい。この人物は無関係。俺たちは今、全くの時間の無駄を過ごしている。犯罪者を目の前にして言う台詞ではないかもしれないが、これはいい加減、斉藤に説明しなくてはならないだろう。


「ああああっ!!」


 俺が斉藤に声をかけようとしたその時だった。再び大声が辺りに響いた。だが、今度の声はなんと斉藤だった。


 まさか、返り討ちにされたんじゃないだろうか?しかし、鞄はそこにある。だが今の声は断末魔にも似た、苦しさに滲んだ声だった。まさか、本当に棺桶に入ることになったんじゃないだろうか。そう思うと途端に怖くなってくる。


 俺は恐る恐る、泥棒に覆い被さる斉藤に手をかけた。どうか抱き起こした時、手に血がついてるなんて展開はやめてくれよ・・・。


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