第16話 はと

 反射的に体が動き、何かが触れてきた方向と反対側に体を手と足で跳ね上げて、ナオキは一気に立ち上がった――。


 とっさに化け物がまた気配をさせずに下りてきたのかと思ったが、そこにいたのはさっき二階に上がっていった女だった。


 どういうつもりだ――今、何の為に俺の手に触れた――


 触れられた場所は少しだけ湿っていた。女の手が濡れていたのか、ぬめっとした感触があった。女は立ち上がったナオキに何をするでもなく、自分が寝転んでいた場所の横で膝をついたまま顔を下げている――


 カズオを起こすべきか、なんだか寒気がする。女から目を離さずに――ゆっくり――ゆっくり――床に足を付けたまま後ろに下がった。


 そして、幕を開けるようにじーっと女が顔を上げた。


 邪悪な形相をしている気がしたがナオキの思い過ごしだった。女は先ほど見た時と同じ薄い顔で、ナオキと目を合わせると続けてそっと手招きをした。


「起こしてすみません。ナオキさんでしたよね?あなたと2人だけでお話がしたいのですが」


 2人だけで話そうと寝ているカズオを起こさないためか息だけで女は言った。


「どういう話ですか?」


 ナオキも同じようにかすむような声で返事をした


「お願いしたいことがあります」



 少し迷ったが話だけでも聞いてみることにしたナオキを女は一階の奥の暗い部屋に連れて行った。ここ以外に徹した場所がないのかも知れないが化け物の部屋の次に不気味な部屋だ。電気をつける気もないらしい。


「今日ここから出ようとするんですよね」


 対面する形で座った女が話し始めた。


「もしも安全に脱出する状態が作れたら、私の子供を一緒に外に出してやってくれませんか?できればそのまま警察にでも連れて行ってあげてほしいのですが、そこまでは求めません。ちゃんと外に出たときのために連絡がつく親戚の電話番号も教えてるので」


「……なぜ僕に頼むんですか?あなたが一緒にいてあげればいいでしょう。それか僕よりは付き合いの長いカズオさんに――」


「あの人はダメです。信用できません。それに私はここで死ぬべきなんです。もう外に出ようとは思いません。けど子供だけでも外に出してあげたい」


「そんな――詳しい理由は知りませんが、死ぬなんて言わずに自分の子供は自分で守ってあげるべきですよ。僕とカズオさんが決めた脱出可能になった時の合図を教えるのでその時に隙を見て逃げてください」


 ナオキは少なくとも警察には連れていけないことを棚に上げ、厄介な頼みを引き受けたくないという本心を組み替えてから言葉にして断った。女がどうしてここで死ぬべきなのかもどうしてカズオを嫌ってるのかもどうでもいい。ここから出れればそれでよかった。


「家がこうなってしまったのは私が悪いんです……でも、今日あなたたちは勝手な都合で私たちも危険にするつもりでしょう。何でこんなことも引き受けてくれないんですか。純粋に子供を助けたいだけなのに。それだけなのに。どうして?どうして?……私があんなことをしたから?……あの人が死んで……たまに誰かが入ってきては……死んで………………ああああああ、あの子も死んでしまう……あの子も……」


 異常だ。狂っている。徐々に目の前の女が壊れていく。ぶちぶちと音が鳴るほど髪を引っ張り、目からは涙と血が混ざったような半分赤い液体が流れ始めている。終いには化け物へと姿を変えそうだ。


「分かりました。やります。絶対子供は死なせません。大丈夫です。大丈夫です」


 ナオキは言いながら立ち上がって、走り出すこともできるように足に力を入れた。


 もしもおかしな行動を取れば……やるか。いや人間は――殺すべきは――


「……ありがとうございます」


 女は正気を取り戻した静かな声でそう言って落ち着いてくれた。本当に良かった。ナオキは掴んでいたイスから手を離した。


「……見苦しいところをお見せしてすみません。よろしくお願いします」


 ナオキに頭を下げると、女は二階に上がっていった。


 ふう、何なんだまったく……。やっぱりやってみるか。


 カズオが寝ている部屋で壁にもたれて十分ほどでナオキは決心した。女が寝るのか分からないが、もう十分ほど待ってから、ナオキは台所で包丁を探した。


 二階に上がり化け物の部屋の前に立った。心を無にして台所にあった中で一番大きな包丁の柄をグッと握りドアを開く。


 先ほどと同じ体制ではなく起き上がっていた化け物の目はナオキを捉えて、黒目の部分の外側が真っ赤で中央だけが深く黒かった。

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