√東條姫乃 その5

 「それにしても……東條さんがあのヒメノだったとはな……」


 正直、今まで考えたことはなかった。でもたしかに言われてみれば、似てるかもしれない。というか、本人なのだからそれはそのはずか。俺は何を言っているんだか。


 ヒメノ。いつも天真爛漫で笑顔が絶えなくて、いつも俺の後ろを歩いて付いてきていた。でも何かあるとすぐに泣き出してしまっていた。

 そして彼女が泣き止むまで頭を撫でたりして、慰めていたな。それに俺から褒められるのが好きで「あたまをなでてー」とご褒美を所望していたな。


 本当にこんなところは以前から変わってないと思う。


 それに以前から容姿が際立って周りから『美少女』と呼ばれていたな。

 でも以前と違うところは髪型か。あのときは肩に当たるか当たらないか程度の髪型だったのに。今では腰に当たるまで伸ばしているが、やっぱり昔の印象が強い。


 だからこそ、俺は今まで東條さんをヒメノと気がつかなかったのかもしれない。


 「私はずっとずっとユウを覚えていたのに、それなのに酷いよ! 私のことを忘れるなんて!!」


 目の前に居る彼女は口を尖らせながらも穏やかな笑みを浮かべていた。その表情はどこか疲労を感じさせるものがある。もしかしたら彼女は俺と出会ってからずっと俺に気づいて欲しいと思い、アピールしていたのではなかろうか。

 だが、それに俺は全く気付かなかった。彼女本人からの口からは絶対に聞けないかもしれないが、多分このようなことがあったとみていいだろう。

 日頃からラブコメ漫画を読んでいるのに、女の子からの気持ちに気付かなかったというのはラブコメ愛好者としてはショックなものだ。


 「悪かった。でも本当に気付かなかったんだ。だって、ヒメノってもっと子供っぽいところが多かったし」


 「それはそうだよ。だって、その頃の私は普通に子供だし。そんなことを言ってるユウだってあの頃は泣き虫だったじゃん」

 自分のことを小馬鹿にされたのにムカッとしたのか、彼女は反論してきた。でもたしかに、あの頃の俺は泣き虫だった。いつも泣いてばかりだった。嫌なことがあれば、母親が入院していた病院へ行き、そこでいつも母親に慰めてもらっていた。

 母親は俺が何度涙ぐんで病室へ現れても嫌な顔を一切見せず、優しい笑みを浮かべて、俺の頭をゆっくりと撫でてくれていた。俺は母親から撫でられるのがとても好きでいつもお願いばかりしていたな。


 「でもね、良いの……。今、こうして分かってもらえたから。私はそれだけで満足だよ」

 

ニッコリと口元を緩ませ、大きな瞳がこちらをじっと見つめてくる。瞳は思い残したことは何もないと言わんばかりの満足感に満ちている。全てを成し遂げて疲れたと物語っている。多分、これは帰りの電車内で熟睡することだろう。

 何かいい言葉を返そうと思うが何も思いつかなかった。

 そんな俺にヒメノが話しかけてきた。


 「ユウヤくん、私とした約束を覚えてる?」


 真剣な眼差しで俺を見つめてくる彼女。

 約束……俺とヒメノがした約束。

 忘れるはずがない。絶対に。


 「覚えてるよ。忘れるはずがないだろ」


 俺の言葉を聞いて彼女は口角を上げ、目元を緩ませた。


 「約束は覚えていてくれたんだね……。じゃあ、あの日の続きを今からしよっか?」


 そう言って彼女は少しずつ俺の方へ近づいてきた。

 それと同時に俺の心はドキドキと高鳴り始める。


 ***


 彼女と俺が初めて出会ったのは『病院』だというのは正しかった。

 だが、俺はそれを高校一年生の頃だと思っていた。だが、それは違う。

 本当に最初出会ったのは『十年前の病院』だ。まだ母さんがいたあの十年前。



 当時の俺は泣き虫な男で嫌なことがあれば、頻繁に母親の元へ訪れていた。

 そんなある日、母親の病室へ向かったのに母親がいなかった。より一層泣き出して、母親を探し始める俺。本当に情けない奴だ。そんな俺を見て、喋りかけてきた女の子が居た。

 それがヒメノだった。ヒメノは俺が泣き出す様を見て、心配して声をかけてきたのだ。


 「どうしたの?」


 それから俺は母親が病室へ行ったがいなかったことを告げる。すると、彼女は自分の病室へ来るようにと手を引っ張ってきた。

 その日以来、俺は母親の元へ訪れる時には彼女の元へにも通うことにした。

 俺が彼女の元へ訪れると、彼女はいつもベッドから外を物欲しげそうに眺めていた。

 そんな彼女を見る度に何を見ているのか、さっぱり分からずに俺は何を見ているのか尋ねていた。だが、彼女は「なにもみてない」と辛そうに明るい声を出していた。

 そんな彼女にどこかおかしいと思うが、それが何だったのか全く気付けずにいた。

 彼女と仲良くしていくにつれて、母親の体調がドンドン悪くなっていた。時間の流れと共に進行していく病気だったのだから仕方がない。

 美しかった母親の長い髪の毛は少しずつ抜けていき、身体もドンドン痩せ細くなっていく。

 あんなにも綺麗な長い黒髮と柔和な笑顔が特徴的な母親から笑みが消え失せていくのを肌に感じていた。俺が喋りかけても、ぼぉーとして気付かない日が増えていった。それに俺が母親の元へ訪れると、涙を流すようになった。俺が何か悪いことをしているのか。

 何が母親を責め続けたのだろうか。彼女が何に対し、涙を流していたのか。

 多分、それは母親としてもっと生きていたい。我が子ともっと側に居たいという気持ちだったのだろう。母親は自分が死んだ後のことを父親に話していたらしい。

 再婚する際に父親から母親からの約束でもあると聞かされた。やはり俺という存在がいたからだろう。これから少しずつ成長していく我が子を見届けることができずに死ぬことに彼女は色々と複雑な気持ちがあったことだろう。だからこそ、自分以外の新しい母親を見つけてあげるように父親に言ったのだ。

 それから少しずつ、時が進んでいった。紅葉が美しかった秋が終わり、凍え死ぬような冬がきた。そして段々と温かくなっていき、蝉の鳴き声が聞こえてくる母親が好きだった夏がやってくる。

 そして七月に入ってすぐに、母親が死んだ。俺が大好きで、大好きで仕方がなかった母親がこの世を去った。人が死ぬという恐怖を初めて知った。病室で動かなかった母親に抱きついて、俺はずっと喋りかけつづけた。喚き続けた。ずっとずっと、母親の側に居たかった。もっと一緒に居たかった。

 母親が最後に俺に残した言葉は呆気ないものだった。


 「ユウヤは強い男の子になって」


 泣き虫だった俺を母親は心配していたのだろう。このまま自分が消えて、本当に大丈夫なのだろうかと。正直、最後の最後まで母親に心配をかけてしまう自分が情けなかった。

 それに母親が最後に残した言葉さえ素直に守れない自分がいた。そう、俺は泣き虫なままであったのだ。


 ***


 ヒメノは普通の女の子だった。どこにでもいる笑顔が愛らしくて、周りの人たちから愛されるようなそんな普通の女の子。

 でも実際のヒメノは普通とは呼べなかった。見た目は普通の女の子に見えるかもしれないが、その小さな身体には生まれつきの病気を患い、日々病魔と闘っていたのだ。

 そんなヒメノが病室を抜け出し、廊下を歩いていると自分と同じぐらいか少し高いぐらいの身長の男の子に出会った。それは紛れもないユウヤである。正直、この際にヒメノの恋は始まっていたと言っても過言ではないだろう。病院内では自分と同世代の人が居ないヒメノにとって、ユウヤは興味深い存在であることに間違いはない。泣いている彼をこのまま一人にしておくのをいけないと思ったヒメノは彼の腕をギュッと握って、自分の病室へと招き入れた。

 それから少しずつ、ヒメノとユウヤの関係は仲良くなっていく。ユウヤと一緒に喋っているだけで、ヒメノは幸せになれた。物心ついた時から大人たちから危ないから外に出てはいけないと言われていたヒメノにとって、外の世界はとても魅力あるものに感じていた。

 だからこそ、ユウヤが話す内容にかなり惹かれていく。それと同時に彼がドンドン童話に出てくる王子様のように思えた。


童話の内容はお城の中で一人ひっそりと暮らすお姫様の元に王子様が現れて、色々な冒険譚を聞かせてくれるというものだ。そしてお姫様はその王子様に徐々に惹かれていく。でもお姫様はお城から出ることができない呪いをかけられており、出ることができない。

そんなお姫様を不憫に思った王子様が彼女の呪いを解き放ち、彼女と共に永遠の誓いをして、ひっそりと王子様が住む小さな家で幸せに暮らすという話である。


ヒメノはその物語に登場するお姫様に自分を見立て、王子様をユウヤに見立てた。

それに自分の名前には『姫乃』であり、『姫』という漢字が入っている点にもその物語に共感性を感じていたのだ。

 だからヒメノは時折、ユウヤのことを「おうじさま」と呼ぶようになった。すると、ユウヤも頰を赤く染めて、ぽりぽりと恥ずかしそうに「おひめさま」と呟くのであった。

 そんなある日、ヒメノが外を眺めているとユウヤがいつものように病室を訪れた。ヒメノが悲しそうに視線を外から外すと、ユウヤが言った。

 「そとにいきたいんでしょ?」

 その言葉を聞いて、「ダメだよ」とヒメノは返す。

 だが、その言葉を打ち消すようにユウヤは言った。


 「だいじょうぶだよ。ゼッタイにまもってみせるから」

 ニカッと白い歯を見せて笑うユウヤにもう一度、「ダメだよ」と返す。

 すると、ユウヤは彼女の方へ歩み寄り、そっと腕を掴んだ。

 初めて会った時は泣いてばかりだったあの男が自分の手を握ってくれることに関心を抱いたヒメノ。

 「だ、ダメだよ。おこられちゃうよ……」と小さな声でヒメノは呟く。


 「そのときはオレだけがおこられるようにするから」


 強引にヒメノの腕を引っ張るユウヤ。でもヒメノは嫌な気がしなかった。

 でも一番聴きたかった言葉を聞くために訊ねた。あの童話のように。


 「どうして? わたしのためにこんなことまでしてくれるの?」


 その言葉を聞いて、ユウヤは面白そうにニカッと笑った。

 そして言葉を吐いた。


 「だって、オレはヒメノのおうじさまだから」

 

その言葉を受け、ヒメノは頰を染め、ユウヤの手をぎゅっと握った。それに合わせるように

ユウヤの手にも力が入った。


 こうして二人は病院を抜け出した。その後、病院に帰ってくると二人はめちゃくちゃ怒られた。でも二人の表情は笑みだけが残っていた。


 病院を抜け出した日以来、二人の関係はさらに深まった。特にヒメノに至っては完全にユウヤにベッタリとくっついていた。完全にメロメロなのである。

 一方、ユウヤの方も満更ではなかった。しかしやはり男の子としては照れるものがある。

 そんな二人の姿を見て、微笑ましく見守る大人がいた。それがユウヤの母親である冷夏で会った。まだこの時は美しい髪を維持していた。だが、少しずつ抜け落ち始めていた。 

 もちろん、そんなことをユウヤとヒメノは知る由もない。


 「ヒメノちゃんは本当にユウヤが好きなのねー」

 戸惑うことなく、ヒメノがすぐに冷夏の言葉に反応した。


 「うん!! ユウのこと、だいすき!!」

 そう言って、ヒメノはユウヤに飛びついた。ユウヤは飛びついてきたヒメノをヨシヨシと頭を撫でていく。すると、ヒメノの表情が和やかになっていく。


 「二人とも、本当にお似合いよー。もう、結婚したらどう?」


 「け、けっこん!?」とヒメノが大袈裟に声を出して驚いた。


 「うん、結婚よ。結婚!! ねぇ、ユウヤもそれでいいよね?」


 ユウヤは結婚というものをあまり知らなかった。だが、好きな人と一緒に暮らしていくということだけは分かった。


 「いいよ。あのどうわみたいにヒメノといっしょにしあわせにくらすってことでしょ?」

 ユウヤは冷夏に訊ねる。


 「そうよー。いいなぁーヒメノちゃんー。ユウヤと一緒に暮らせるよー」


 「えぇー」とヒメノはさらに声を出して、頰を真っ赤に染める。そして目線を左右に焦らしていく。ユウヤの方を見ては、外方を向くのを繰り返す。恥ずかしいのだ。直視できないのだ。

 だが、ユウヤはそんなヒメノに目に入れずに


 「なにをいってるの? おかあさんだって、いっしょにくらすでしょ?」と訊ねた。


 その言葉に苦し紛れに冷夏は返した。


 「そうねー。お母さんも一緒に暮らそうかしら、あはは」と微妙な笑みを残しながら。


 冷夏は知っていたのだ。自分の寿命がもうそれほど長くないことを。だからこそ、ヒメノの存在には安心していた。それにこのまま二人が結婚してくれるなら、冷夏としては嬉しい話である。未来の花嫁を見れて良かったと。この二人が成長していく姿を見守ることはできないけど、それでも良かったと。


 「れいかおばさん、なみだがでてる……」


 「あはは、目にゴミでも入ったのかな? あははー」と冷夏は笑い飛ばそうとする。

 でもどんなに押し殺そうとしても涙が止まらなかった。だから必死にぬぐった。

 それでも一向に止まらない。止まらない涙を流しながら、冷夏は我が子の幸せだけを思った。願った。

 ——私が居なくなっても、この子だけは幸せに生きて欲しいと。でも年頃の男の子には母親という存在は絶対に必要なはずだ。だから新しい母親が必要になる、と。


 「ほんとうにおかあさんはドジだなぁー」とユウヤは返した。彼はまだ子供だから何も分からないのだ。だが、ヒメノは冷夏が何故、涙を流しているのか理解できていた。

 病院生活が長いこともあり、なんとなくだが、勘づいていた。


 その後、ユウヤの父親がやってきた。そして冷夏と小話をしてから、ユウヤの手を握って、病室を出ていった。強く、強く握り締めた。この子だけは絶対に幸せにさせることを誓いながら。愛する人が日に日に弱っていく姿を見るのは辛いことだ。それと同時にその人が残してくれたたった一人の掛け替えのない子を一生大事にすると誓いは更に大きなものと変わっていく。これからも愛し続けると心に深く深く刻みながら。


病室には冷夏とヒメノだけが残った。どうにか涙が止まった冷夏は目を大きく腫らしていた。もう、自分が長くないことは理解できている。そのためにも少しでもできることをしなければならない。


 「ほら、ヒメノちゃんもそろそろ戻らないと怒られちゃうよー」


 「いや!!」ヒメノは冷夏から離れようとはしなかった。いつもは物分かりのいい子なのに、どうしてなのかと冷夏は疑問に思った。

必死に冷夏に縋りより、抱きしめた。冷夏は「どうしたのかな?」と優しく声をかけて、ヒメノの頭を優しく撫でる。それは我が子を撫でるように。


 「だって、おばさん。むりしてるもん。おばさん、とってもつらそうにしてる。それに最近のおばさん、げんきがない」


 「だからね、わたしがおばさんのちかくにいてあげるの」


  冷夏は彼女に心配をかけないように言葉を投げかける。

 「大丈夫よ。おばさんは無理なんかしてないし、それに元気だから。大丈夫」


 「ほ、ほんと?」上目遣いで冷夏の瞳を覗き込むヒメノ。とても大きな瞳だった。

 自分の全てを見透かしているかのような真っ直ぐで穢れを全く知らない無邪気な子供の瞳。

 あまりの輝きに冷夏は直視することができなかった。

 そして苦し紛れに言葉を吐いた。絶対に彼女に自分の本心を悟られないように。


 「うん。本当よ」


 「じゃあ、あんしんだね。はやくげんきになってね。だって、そうしないとおばさんはけっこんしきにこれないもん」


 「結婚式? 誰と誰の?」


 「それはわたしとユウのだよ」満面の笑みを向けるヒメノを見ていると自然と頰に水滴が伝っていくのを冷夏は感じた。


 自分は二人の結婚式を見ることはできない。自分はそれほど長く生き続けることはできない。それを冷夏は理解していたからだ。自分から二人に結婚するようにと提案を持ちかけたのに、それなのに自分が泣かされることになるとは、冷夏は思いもしてなかった。


 「お、おばさん……?」ヒメノは心配になって冷夏に言葉をかけた。


 「あれ……なんでかな? わからないよ。涙が止まらないよ……どうしてなのかな? おばさん、大人なのに、涙が止まらないよ……心の中では絶対に泣かないと決めてたのに……それなのに、涙が全然止まらないよ……」


 次から次へと瞼から頰へ、頰から手元へ涙がポツポツと落ちていく。

 ヒメノは何も言わなかった。ただ、冷夏を力いっぱいに握りしめた。小さな手で握りしめられる冷夏は幸せ者だと思った。こんなにも自分が愛されていることに。

 そして冷夏が泣き止むまでずっとヒメノは握りしめ続けた。


 「もう大丈夫よ。本当にありがとうね、ヒメノちゃん」

 真っ赤に腫らした瞼で柔和な笑みを残し、感謝の意を汲んだ。


 「おばさん、なにかしんぱいごとでもあるの? わたしができることなら、きょうりょくするよ」


 本当にヒメノちゃんは良い子だと冷夏は思った。こんな他人のことを思い遣ることができる女の子ならば、将来的にユウヤのことを任せることができるかもしれない。

 でも、まだ二人とも子供だから関係性が変わることもあるだろう。でも藁にもすがる思いで、冷夏はヒメノに全てをかけるしかなかった。猫の手でも借りたい。

 あの子が少しでも、幸せになれるのならば。


 「ヒメノちゃん、実はね、おばさん。もうそれほど長くないの……」

 ヒメノは昔から本当に物分かりが良い子だったこともあり、すんなりと冷夏の話を聞いた。

 ただ、表情はすでに歪めており、泣きじゃくっていた。それなのに、冷夏が全てを話すまで声を漏らすことはなかった。


 「|あの子(ユウヤ)、友達が少ないでしょ? わたしが居なくなったらあの子は絶対に泣いちゃうと思うの。だから、わたしの代わりにあの子の側に居てくれないかな?」


 「それがおばさんのおねがい?」と純粋無垢な瞳が冷夏を覗き込んできた。冷夏は目をそらしたくなる。だが、絶対に逸らすことはしなかった。


 「うん、そう。私の願い。心残りなの。あの子、いつも何か嫌なことがあったら私の所に来るでしょ。でも……私が居なくなったら、もう行く場所が無くなってしまう。そうなったとき、あの子が心配で……心配で」


 冷夏は咽び泣いた。ただ、瞼の奥から水滴が流れ落ちるのを押し殺そうと必死だった。しかし何度堪えようとしても涙が溢れ出し、それを手のひらで拭い続けた。

 その姿を見て、ヒメノの目頭はカッと熱くなっていく。


 「わかった。わたしがおばさんのかわりをするよ。だからあんしんして!!」


 もう、ヒメノの頰は濡れていた。ぽたりぽたりと小さな涙が落ちていく。


 「じゃあ、約束しよっか。ヒメノちゃん」


 冷夏とヒメノは小指と小指を絡め、約束をしたのであった。


 ***


愛する母親を亡くし、逃げる場所を失ってしまった俺。そんな俺は亡き母親の影を見るかのように病室へ訪れる。もしかしたら母親がまだ居るのではないかと思って。

またいつものように俺の頭を優しくそっと撫でてくれるのではないかと。


しかし、そこにはもう誰も居なかった。


ただもう使われていないベッドだけが残る。

そんな空虚になってしまったベッドを見ていると、母親がこの世界に居たということが嘘のように感じられてしまう。そして、俺はまた泣いた。泣きながら、俺はまた病院の長い廊下を歩いた。行き場を見失って何処にも行く場所がない俺。

 

そんな時だった。あの女の子の声が聞こえてきた。

俺が以前『おひめさま』と呼んでいた女の子の声が。


「どうしたの?」


その声に少しだけ感情が落ち着いた。


「ないてばかりだったらわからないよ。なにがあったの?」


そう言って女の子は俺の頭を撫でた。まるで、母親のように。

俺の頭をそっと優しく触れ、励ましの言葉をかけてくれた。


そんな日が何日も何日も続いた。俺は女の子を自分の母親の代わりとして見立て、次第に縋るようになった。嫌なことがあれば、彼女の元へ訪れる。そして彼女に慰めてもらう。

彼女は弱虫な俺を嫌な顔一つせずに優しく受け入れてくれた。

 

だが、そんな日々は長くは保たなかった。


母親が亡くなってから一ヶ月以上が過ぎ、蝉の鳴き声も次第に弱まっていった。

母親が生きた、生きようとした今年の夏が終わるのが無性に嫌で仕方がなかったことを覚えている。でも一方通行である時間の流れに逆らうことはできない。

それに女の子とのお別れがやってきた。

話を聞くに、こんな田舎町の病院ではなく、大きな町の病院に行くらしい。どうやらかなり彼女の容体は悪いみたいだった。でも俺はそんなことに気づけるほど、察しがいい子供ではなかった。それに、女の子もそれを必死に隠していたと思う。

それでもちょっとずつ遊んでいる際に、彼女が苦しそうに咳き込んだりする姿が目立つようになった。それを見て、声を掛ける。だが、女の子の表情はいつものように笑顔を向けてきた。本当はかなり辛かったはずなのに。


「だいじょうぶだよ」と。


「わたしはだいじょうぶ」と。


 小さな女の子は俺を安心させるために、無理に笑みを作っていた。

 少しはおかしいと感じるも、言葉の嘘を見抜けるほどに賢くはない俺は素直にその言葉を受け取っていた。でも体調が日に日に弱っていく女の子の姿を母親の姿と重なってしまう。

 母親のようにこの世から居なくなってしまうのではと、恐怖に駆られてしまった。


 そんなある日。俺とヒメノはベッドの上で一緒に絵本を呼んでいた。その絵本はヒメノが大好きな大好きなあの童話が書かれているものである。


 その童話を読みながらぽつりとヒメノが呟いた。


「ねぇーユウはわたしのことどのくらいすき?」


突然のヒメノからの爆弾質問に俺はこれといって、言葉を上手く伝えることができなかった。


「わたしのこと、きらいなの?」と顔色が急激に曇った。


「……すき」俺は恥ずかしげながら、意思表示を見せる。


すると、ヒメノは晴れ渡った顔色に変わり、俺に抱きついてきた。


「わたしもユウのことだーいすき」


首に腕を回され、身動きが取れなくなってしまう。昔のヒメノは強引な奴だった。


「ユウのからだあったかいー」とスリスリ自分の顔を俺の腹部辺りに押し付けてくるヒメノ。

「それにユウのにおいがするー」

 腹部を顔でグリグリと侵食されていくのがくすぐったい。


「く、くすぐったいよ……。やめてよ、ヒメノ」


「やめないー」とイタズラな笑顔を向けてくる。


「それにまだどのくらいすきかきいてないー。おしえてくれたらやめてあげるー」


「……」俺は言葉が見つからなかった。


今まで一度も考えてこなかったからだろう。

どのくらい好きなのか。言葉では言い表せないほどに俺はヒメノが好きだったと思う。


「また、だまってる……」とヒメノはご立腹の様子を見せた。それにほっぺたを大きく膨らませていた。


「セカイでいちばんすき?」彼女が迫るように俺に問い掛ける。


「うん……」と俺は頷いた。


「う、うれしい……」と恍惚な表情を浮かべ、両手で真っ赤に染まった頬を隠した。


「じゃあさ、ユウ。わたしがいなくなっても、ずっとずっとすきでいてくれる?」


「どういうことなの?」


「わたし……しゅじゅつするの。おおきなまちにいくの」


「さびしくなるね。でも……ヒメノがげんきになるならそれでいいよ」


「はなればなれになるけど、ずっとずっとすきでいてくれる?」


「うん。ずっとずっとすきだよ」


「ありがとう」とヒメノは涙を流しながら呟き、俺の頰に自分の唇をくっつけてきた。


「えっ?」

 

何が起きたのか一瞬分からなかった。でもそれがキスだというのはすぐに理解できた。


慌てふためく俺を見て、ヒメノは「にへへ」と笑みを残す。


「もしもさ、わたしのびょうきがよくなったら、またむかえにきてくれる?」


「うん、いくよ。だって、オレはヒメノのおうじさまだからね」


「じゃあ、ぜったいにまってるよ。ずっとずっとまってるから。おうじさまがみつけてくれるまでずっとずっと」


「うん。じゃあ、オレもずっとずっとさがしつづけるよ。そのときは、なきむしとはもうよばせないよ」


「じゃあ、もしもつぎあうときはあのえほんのつづきをしよう」


「あのえほんのつづき?」


「そう、えほんのつづき——」


***


 昔、俺がヒメノと呼んでいた女の子は大きく成長させ、綺麗な女性へとなった。

そんな彼女は俺の目の前に立ち、背伸びをして目を瞑っていた。

 どうやら決心が付いたらしい。俺はまだまだ緊張が取れないのに。

 だが、男としてここは逃げられるはずがない。


 俺はそっと、彼女の小さな顎を上に向けた。

そして軽く唇をそっと合わせた。彼女の唇はとっても柔らかくて、それに艶があった。頭の意識がぼぉーとなってしまい、彼女のことだけを考えてしまう。

 彼女の唇から慎重に唇を離す。彼女の顔は真っ赤だ。自分も同じように頰がカァーと熱くなっていくのを感じてしまう。

彼女は真っ赤になった頬を両手で覆い、目を左右に泳がせる。

少しだけ後退りしてしまう。そしてお互いの顔を見合わせる。


「もしよかったら俺と付き合ってください。お願いします」

 頭を下げて、手を差し出す。


 すると彼女が鈴の鳴るような声で返事を返した。


「はい。よろこんで」


向日葵のような満面の笑みを浮かべる彼女にまた俺は一目惚れしてしまっていた。


 ***


電車内での帰り道。俺は説教を食らっていた。全てはやはり俺の鈍感さが問題らしい。

彼女が如何に今まで自分が頑張ってきたのか(アピールしてきたのか)、それを聞くと彼女が不憫に感じて仕方がなかった。いや、原因は全て俺の鈍感さが問題だけど。

それにしても彼女があんな場面やこんな場面で暗躍してたと考えると末恐ろしい。

知らぬが仏というが、まさしく知らなかった方が良かったかもしれない。


何より一番の謎であった『何故、ペットになったのか』の話を聞いた。

どうやら俺の母親と色々と約束をしてたらしい。側に居て欲しいとか何とか。

それと俺の心を掴むという邪な気持ちも一割程度はあったらしい。

でも何故それでペットになったのかは不明だ。彼女の思考回路を解読できる機械があればいいのだが、もちろんそんなものは存在しない。


 でもこんな言葉を言っていたな。


「だって、わたしのこと全然ヒメノと分かってくれないから。もうこれはこっちから仕掛けてやるって思ったんだもん!! これは全て、王子様が来るのが遅いのが問題だったん

だぞ!!」とポコスカポコスカと胸板を殴られつづけた。あまり痛みは感じなかった。

 むしろ、可愛いぐらいだ。


 まだ彼女を理解するのは無理があるが、それも今後でいいだろう。

だって、俺たちは付き合うことになったのだから。墓場での告白というのは親の目の前で告白するというほぼ公開処刑状態だったが問題はないだろう。

 もしも母親が生きていたのなら祝福の言葉を掛けてくれるだろうか。


「それよりも、ヒメノ……」


「あ、またヒメノになってるー。姫乃だよ!! 姫乃!!」


 彼女はどうやら『ヒメノ』と呼ばれるのが嫌みたいだ。

子供っぽくて嫌らしい。俺にはあまり違いが分からないが、折角付き合い始めたのだから呼び方を変えようと持ちかけてきたのだ。


「ごめんごめん。姫乃」


「謝ればよろしいー。それでどうしたの? ユウ」


 俺は以前のように『ユウ』呼びになった。


「ペット生活はどうするんだ? 目的はもう達成したわけだろ」


「何を言ってるんですか? まだ続けるに決まってるじゃないですかー。やっと彼氏彼女の関係になれたのに、これで別居とか考えられませんよ!」


(それに私の夢は結婚だもん!! だからこれで第一関門を突破したばっかりだもん!!)


「じゃあ、継続か……」


 正直、今まで自制心が働いて何もできなかった。


 だが、今日から彼氏彼女になったのだから……。


「ユウ。今、エッチなこと考えたでしょ」


「考えてないよーそんなこと」と手をワタワタ振って誤魔化した。


「そっかー、残念。私はいっぱいいっぱい考えてたのに」


「えっ? それってつまり……」

 彼女は恥ずかしくなったのか、外を眺めていた。彼女に合わせるように俺も外の

方に目線を向ける。

 そこには水平線に真っ赤に光り輝く夕日が見えた。とても幻想的な景色に声を出してしまった。


「き、綺麗だな」


「えっ?」

(突然の綺麗発言??)


「一段と綺麗だなと思った。普段見慣れているから気づかないけど。やっぱりこうして改めて見るとさ」


「そ、そうかな? わ、私もかっこいいと思うよ」

(ユウが眩しすぎて直視できないよー)


「まぁ、かっこいいと言えばかっこいいかもな」


「それにしてもこんなに真っ赤なんだな」


「それは真っ赤になるよ。そんなに見ないでほしい……」

(だってそんなに見られたら、ドキドキするに決まってるじゃん。さっき、キスしたばっかりなのに……)


「こんな機会滅多に無いし、写真でも撮っておくか」


「ええっー!!」


「そんなに驚くことではないだろ?」


「うーん。そうだと思うけど」


「あ。って、俺のスマホはすでに充電切れだった。悪いが自分で撮ってくれないか?」


「ええっー」


「もちろん、綺麗に撮ってくれよ。みんなに自慢したいし」


(それって私が彼女だよって、自慢したいってことなの? でも年頃の男の子だし、彼女を自慢したい気持ちはあるわよね)


「う、うん!!」

 その後、彼女はパシャりと写真を一枚だけ撮影した。

 見せてくれとお願いしたら、恥ずかしいから嫌だと。でもLIMEに写真を送ったよとのこと。

 彼女は疲れてしまったのか、眠ってしまっていた。やはり遠出で疲れてしまったのだろう。

 もう本当に昔と変わらない、ただの子供だった。


 自宅に帰宅して、夕飯を食べ終わった。そろそろ充電が完了しただろうと思って、スマホを確認してみるとやはりすでに完了していた。

 そしてLIMEを開いてみた。


すると姫乃から『写真を送信しました』の文字。


 恥ずかしいと言っていたが、そんなにブレブレだったのかなどと思いながら確認してみると、そこには頰を真っ赤に染めた姫乃の自撮り写真があった。


 「えっ……俺の彼女可愛いすぎるんだが……」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます