灯編 理想の父親像

錬是れんぜって、なんか、<お父さん>って言うより、<お母さん>って感じがするんですよね』


ビアンカのその言葉は、シモーヌや久利生くりうの実感でもあるらしい。


「子供達と接する時のあなたの振る舞いが、<父親>というより<母親>を連想させるのは事実ね」


シモーヌもそう言う。


「ああ。それは僕も感じる」


久利生くりうも言うが、


「いや、それは久利生くりうも同じだと思うぞ。俺から見ると久利生くりう未来みらい黎明れいあへの接し方は母親っぽいと思う」


と俺は返した。するとシモーヌも、


「確かに。錬是れんぜ久利生くりうも、父親として見れば似たタイプなんでしょうね」


なんてことを。でもまあ、野生動物の場合だと、むしろ父親が育児に関わる事例は少数派だからな。ほまれや、めいのパートナーのかくかいは割と子供と積極的に関わろうとするものの、必ずしもそれが<普通>というわけじゃない。じゅんもそうか。あらたは実の子供相手じゃないが、それでもパパニアンの雄としては例外的に育児に熱心だ。


だから地球人のように<父親の役目>なんてものに拘るのは逆に異様なのかもしれない。


ただ同時に、地球人の社会ってのは野生に比べて非常に複雑で覚えなきゃいけないことがやたらと多い。ゆえに母親だけに押し付けることは非合理的なんだろう。


手分けしてやる必要があるってことだな。


だから俺も、可能な限りは関わるようにした。俺が自分の人生の中で学んだことを伝えるために。


ある意味では、それが<父親の役目>なんだと思う。となれば、別に、映像コンテンツの中で描かれている<虚像の父親>の姿に拘る必要もないさ。それを、


<理想の父親像>


と考えるかどうかは個人の自由だ。自由には責任が伴うが、それを分かってるなら好きにすればいい。<虚像の父親>の姿を真似たことでどういう結果を招くとしてもそれは自分の責任だと考えられるのならな。


<理想の父親像>を夢想するのは構わない。しかしそれが<理想の結果>をもたらしくれる保証はない。その映像コンテンツを作った者達は、責任など負ってくれない。自分のやったことの責任を負うことができるのは、どこまでも自身自身だけだ。


俺はそう考えてるし、ひかりも、あかりも、シモーヌも、ビアンカも、久利生くりうもそう思ってくれてる。


だから信頼できる。


創作の中で描かれる理想的な何かをまったく自分で咀嚼することなくそのまま真似てそれで上手くいかなかったら、


『〇〇の所為だ!!』


と誰かの所為にして泣き言を並べるような奴なんか、信用できるわけないだろう。失敗したらそれを自分以外の誰かの所為にするんだぞ?


その点、あかりは、ビアンカと一緒に久利生くりうを共有する決断について、ちゃんと受け止めてくれてると思う。


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