翔編 スパルタ方式

人間の場合は、どれほどスパルタ方式で鍛えたところで、裸で自然に放り出されればごく一部の例外を除いて死ぬしかない脆弱な生き物だから、そういう形で鍛えること自体、実はあまり意味がないことが分かってる。


<個>の能力で生き延びるのではなく、<群れ>として互いに助け合うという方式を選んだ生き物だから、他者と上手く折り合って協調するのが人間にとっての<生存戦略>だ。


もっとも、だからと言って今以上に非力になると今度は自分の体を維持することにも支障が出るから、体力が低下し過ぎないように学校などでは運動のカリキュラムも組まれているし、自主的にジョギングをしたりジムに通って体を鍛えたりというのは、当然のように行われている。


さらにアスリートは言うに及ばず、軍隊なんかでも<個の能力>もそれなりのレベルのものが求められるので、トレーニングや訓練は厳しいし、特に軍隊ではスパルタ方式でしごかれることもあるとか。


だがそれほどまでに鍛えても、素手では同じように訓練された中型犬にも人間は勝てない。それよりも、戦闘用のロボットを運用する方がはるかに合理的かつ確実だ。


ファランクス方式の集団戦でも、同じ性能を持つロボットをリンクさせることで有機的に連動させる方が、個人の能力にどうしても差がある上にリンクもできない人間よりも圧倒的に強い。


<努力>や<根性>で何とかしようとしても、その努力と根性を高いレベルで発揮できるのは一部の例外的な人間だけだからな。一部の人間だけが突出して能力が高いと逆に連携が難しくなる。


で、能力にムラのないロボットの集団の連携に押し負けるってことだ。


フィクションでは<努力>や<根性>で不利な状況をひっくり返すという展開が今でも好まれるものの、現実はそんなに甘くないんだよ。


オオカミ竜オオカミとの戦いの時だって、相手も個体差がどうしてもある生き物で、かつ数も十分じゃなく、しかもビアンカはアラニーズとしての能力も得て完全に人間を超越した存在になってたことに加え、ドラゼ(この時はまだ<試作機>だったが)をドーベルマンDK-aとリンクさせて運用できたことが大きかったと思う。


正直、ドーベルマンDK-aをさらに作ってそれこそ<数の暴力>で押し切ればもう少し楽だったかなと思わなくもないものの、すでにアリスシリーズとドライツェンシリーズの量産化に向けてこの時点で仕様が確定していた部品については生産も始めていたから、資材の確保とか諸々のことが頭にあって、思い付かなかったというのもある。


もっとも、アリスシリーズとドライツェンシリーズの製造が軌道にってくと、実際にはドーベルマンDK-a程度なら片手間で作れたことがはっきりしてくるんだけどな。


きっとこういうのが、社会が大きくなってきた時に、


『人命軽視!』


とか、


『頭が固い!』


とかってことで批判されるようになるんだろ。


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