明編 線引き
新暦〇〇二九年三月十日。
自分の家族の死は悲しむが、他人のそれが死んだとしても大して心は痛まない。
それは、<生きる>上において必要なメンタリティなんだろうな。
犬や猫は食べられないが、牛や豚は食べられるというのは、そこに線引きを持ってくること自体は、別に不思議でも偽善的でもないと俺は今、実感している。
なにしろ、レッド達や
同じ
だが、そのおかしさが現実問題として俺達が生きる上において何か問題になるのかと言えば、別に何の問題もない。
レッド達や
逆に、レッド達や
要は<気分の問題>なんだな。
『犬や猫はダメで、牛や豚なら食べていい』
というのも、結局はそこなんだろう。
『犬や猫を食べなければ生きていけないほど困っていない』
からだ。
だからそこに線を引くことは、生きる上においては別に問題にならない。
『動物はダメで、植物なら食べていい』
という線を引くのも、それで生きていけるのであれば、好きにすればいいんだろうな。
これもまた、あくまで<気分の問題>だろうから。
『犬や猫はダメで、牛や豚なら食べていい』
『動物はダメで、植物なら食べていい』
『生きているものはダメで、既に死んでいるものなら食べていい』
それらは、本質的には同じだということだ。人間の勝手な線引きでしかない。
だったら、どこに線を引くかは、それぞれ好きにすればいいんじゃないか? それを、他人に押し付けなければいいだけで。
自分がどこで線を引いて、どういう生き方をするかも、他人に害を与えなければ好きにしていいという世の中だったからな。
人間の場合、第一のラインは、
『同じ人間を殺すのダメだ』
というのがあるだろう。それは、人間が、
『自分の力だけでは生きていけない非力な生き物で、他人の助けが必要』
だからだろうな。
『同じ人間を殺すような危険な存在は、一緒に暮らすにはリスクが高すぎる』
というのがあるんだと感じるんだ。
その辺りに<第一のライン>があると思われる。
それが、
<人間を殺してはいけない理由>
なのかもしれない。
少なくとも、俺はそう考えれば納得できる。
そこさえ侵さなければ、後は、どこで線を引こうとも俺としては『好きにすればいい』と思える。
まあ、人間社会には<動物愛護法>とか<絶滅危惧種保護法>とかがあったりするから、実際の線引きは法律に準じた辺りになるんだろうが。
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