幸せとは(これが俺の結論だな)

以前にも言ったと思うが、人生にはどうにもならない苦しい時というものが存在することもある。


どんな時代でもどんな社会でも、生きることに絶望し生まれてきたことを呪わずにはいられない瞬間というものはあったんだろうな。


それは、社会に原因があったり環境に原因があったり周囲の人間に原因があったりするのは事実だし、それを変えようと努力することは必要だろう。


だが、だからと言ってそれらの所為だけにしていて自分は被害者面していればいいかと言うと、必ずしもそうじゃないとも思うんだ。


社会制度が充実してなかった時代にだって人間は生きて、子供を生み、育ててきた。命を繋いできた。


石器時代でも、戦乱の世でも、飢饉や飢餓の中でも。


『生きる』というのは、えてしてそういうものなんじゃないかな。


そして、己の人生を有意義なものにするか無意味なものにするかは、ありきたりな結論かもしれないが、納得できないかもしれないが、最終的には自分自身の問題なんだろうっていうのが現時点での俺の結論だ。


正直、その<ありきたりな結論>では俺も納得できなかったから、ずっと違う結論を探してきたというのもある。


でも結局、俺はその結論しか見つけ出すことができず、しかもそれに今では納得してしまってる。


たぶん、幸せを見付けられたからだろう。


それに納得できないなら、自分なりの答えを探し続ければいいと思う。ただし、それをするのなら、答えを見付けられないまま自分の人生を終える可能性があることも覚悟しなきゃならないだろうが。


俺が今の自分に、今の境遇に満足してしまってることを<妥協>だと言われればそうなんだろうな。


しかし、現に今、自分が幸せを感じているのにそれ以上を求めるというのも、何か違う気がするんだ。


…いや、『これ以上の幸せがあるはずだ!』とか思ってしまうということは満足できていないということか。


なら、次を探さずにいられないというのも当然なのかもしれない。


ただ単に俺は、『これ以上の幸せを探す必要もない』と思える、俺なりの幸せを見付けることができたというだけのことなのかもしれない。


他人からはいくら奇異に見えても、『その程度で納得するとか負け犬の発想じゃん』と笑われても、そんなことじゃ揺るがない、俺にとっての<幸せ>。


もちろん、家族を亡くすのは悲しいし辛いしそれ自体は決して幸せじゃないにしても、いつか別れがあるからこそ一緒にいられることが幸せだと感じられるというのもあるんじゃないかな。


幸せと悲しみは表裏一体ということか。


疲れて自分の寝床で寝るじゅんを、頬を染めながら見守るひかりの姿に、新しい家族との出逢いの予感にあたたかいものを覚えつつ、ひそかとの別れの予感に胸を締め付けられつつ、俺は自分が満たされているのを感じていたんだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る