k 『わたしの子らから喰らうと良い』
あれは何ですか、と訊ねた綾人に、師匠はハンドルを握ったまま「なんだろうねぇ」と笑った。
腰の抜けた綾人を無理やり後部座席に放りこみ、ご機嫌な洋楽が今日も明日もきみと一緒にいたいなんて歌っている、すっかり平和なマークXの車内である。
巽は、どうも手鏡よりはあれのほうが平気らしい。多少は嫌そうな顔だったが元気に自分の足で車に乗りこんでいた。
姉御など相変わらず平然としている。こんなに可憐な乙女なのに、ああいうものに耐性が強いというのがまた、なんともいえないギャップだ。
「名前を訊いた者が誰もいないから解らないけれど、うちの血筋ではあれは『死神』と呼ばれているよ」
「死神……」
「むかぁし昔、うちのご先祖さまが愚かにも『死神』と取引をしたらしい。芸事の極意を教えてもらう代わりにこの体をあげる、って具合にね。しかし死神が約束通りに体を喰らいにやってきたとき、ご先祖さまはこう言った。『悪いが故あってこの身はやれぬ。この右耳をくれてやるから、残りは一つずつ、わたしの子らから喰らうと良い』」
わたしの子らから……。
自分の後世にそんな厄介な呪いを継がせるなんて、なんだかぞっとする。
師匠は綾人が無言で眉を顰めたことに気づいたのか否か、左目を細めて喉の奥で笑った。
「迷惑な話でねぇ、ほんと。ぼくで何代目だかもう忘れたけれども、それからずっとこうやって、どこそこを寄越せ、悪いがまだやれぬ、って先延ばしにしながら呪いが受け継がれてきたみたいだよ。基本的には直系男子のもとに現れるらしい」
「…………ひょっとして師匠ってすごい歴史のある家の人なんです?」
「無駄に続いてるってだけだよ。――ぼくの前は祖父だったんだ。彼は凄かったよ。大体二、三十年で限界を迎える男が多いなか五十年も死神を退け続けた。ぼくは別に右目くらい見えなくなっても困らないんだけど、まあ」
何やらとんでもなく自虐的なことをさらりとぬかした師匠に目を剥いたが、次に零れた言葉に、綾人はぱちりと瞬いた。
「ぼくの右目の次は、弟の喉だから」
弟――
何年も口をきいていない秋津家の弟の顔が過ぎりかけたが、頭を振って振り払う。
師匠の師匠、彼の実姉の話は少し耳にしたことがあるが、弟がいるというのは初耳だった。
あんな広い屋敷に一人で住んでいて、彼自身秘密主義なところがあるから、そもそも家族がいるというのが不思議な感じだ。師匠のお父さんとお母さんなんてものも、失礼な話だが全く想像できない。
「弟は喋れなくなったら不都合もあるだろうし、まだ小学生だしね。致し方なくこうやって心霊スポットや呪いのアイテムを見繕っては、死神にやる餌を捜しているってわけさ」
「……ただの酔狂じゃなかったのかぁ」
「いや、八割は酔狂だろどう見ても」
「何か言ったかなそこの莫迦弟子二人」
「「いいえ何も……」」
ふ、とそこで車内が沈黙した。
師匠はそれ以上のことを語ろうとせず、姉御はほとんど喋らないまま助手席に座って窓の外を見つめている。自然と口をつぐんだ弟子二人も、顔を見合わせてシートに深く背を預けた。
黙ってしまうと、嫌でも先程の光景を思い出すから、本当はまだ話していたかった。
見鬼の強くない綾人にすらあそこまではっきりと『闇』だと知覚させる存在感。恐らくは見鬼の強弱に関係なく、師匠にも姉御にもあれはああいう風に視えていると思う。それくらい力のある異形だった。
見鬼と彼岸のものとの関係性には二パターンある。
一つは見鬼の力の強い弱いによって視えかたが異なるもの。もう一つは、視る側の力の如何を問わず問答無用でその姿かたちを視界に叩きつけてくるもの。
あれは、後者だ。そして後者は見鬼のない普通のひとにも視えることが多くとにかくたちが悪い。理不尽な彼岸のなかでも最も強引で厄介と、師匠はそのタイプを忌避していた。
あんなものと、師匠は一体どれほど対峙してきたのだろう。
二、三十年で限界を迎える親族が多いなか、祖父君は五十年もあれを退け続けたというが、それは一体どれほど途方もない日々か。
死神に、右目の代わりとなるものを用意して餌として与える。
ならば代わりとなるものが用意できなくなったら?
用意したものに満足しなかったら?
一緒にいた綾人たちがもしもうっかり声を上げて、見つかってしまったら?
姉御は承知でいるのだ。
いつかそんな恐ろしい日がくるかもしれないと。
――師匠と一緒にいるということは、そういうことなのだ。
「……次は、十一月ごろになるね」
姉御がぽつりとつぶやいた。
「そうだね」軽い調子で応えた師匠は、あえて明るく取り繕っているようにも思われる。
「その頃には涼しくなっているだろうね。外に出るのがまた憂鬱な時期になる。あいつももうちょっと、春とか秋とか、外出しやすい季節にしてくれればいいのに」
「……そういう問題なの?」
「それくらい文句言ってもいいだろう、こっちは苦労して餌を調達してやっているいわば飼い主の立場なんだから」
「あんなペット嫌だなぁ、わたし」
「ぼくだって御免だね」
どこか沈んだ声音の姉御に対して、師匠が不自然なほど饒舌だ。
「扨て、次は何を餌にしてやろうかしらねぇ……」
姉御がついに口を閉ざした。
耐えられない、といった風に、綾人には聴こえた。姉御の本心がどうであれ、綾人自身は耐えられないと思った。
あの死神が問題なのではない。いつか師匠を喪うかもしれない覚悟をして一緒にいることが恐ろしい。
ご機嫌な洋楽が場違いに愛を謳う。
窓の外を、夜の帳に包まれた鹿嶋市の夜景が、流れてゆく。
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