d 「ないしょ」

「雨の日のこの時間帯は大体ああやって、死んだときのことを繰り返しているの。きっと生きていた間の辛かった記憶が強すぎて、何度死んでも死に足りなくて、何度でも死ななくちゃって思うんでしょうね」


 それは、一体どれほど辛かった人生なのだろう……。

 人よりも雑音の多い世界を生きているとはいえ、十八年間気楽に過ごしてきた綾人には想像もできないものだ。そして、あの男が何度も自殺するその光景を視ていながら平然とそんなことを説明してしまえる姉御の、その境地に至るまでの日々も。


「あの人に会ったのははじめてでしょ。よく悲鳴を上げずに我慢したね」

「いや、姉御に声をかけてもらわなかったら……」


 いままではこんなこと、有り得なかったんだ。


 ただなんとなくそこに在るのがわかるだけのときもあれば、シルエットが視えるときもあるし、声だけが聴こえたり足だけが視えたりする。姿かたちが比較的はっきりしたとしても、僅かに輪郭がぼやけていたり薄い膜を被ったように視えていたりしたから区別がついた。

 なのに、いま、綾人はあれを生きた人間だと判断していた。

 姉御に止められなければ線路を覗いて「人が飛び込んだ」と大騒ぎしていたくらいには、切羽詰まっていた。


 あの男がそれほどの存在感を持つものだったということなのか、それとも綾人の見鬼が強くなってきているということなのか――


「まあ、でも」


 その声に顔を上げて、彼女の横顔を見た。

 憂いを帯びた視線を辿っていくと、電車待ちの列に並んだたくさんの人がいた。誰も彼も下を向いている。手元の端末に視線を落として、顔を上げやしない。


「あれがもし生きている人だったとしても、飛び込んでも誰も見ていなかったかもしれないね」


 その言葉になんと返せばいいかわからず、ただ「そうですね」と捻りのない相槌だけを打った。

 自分が死んだときの行動をひたすら繰り返す男と、もしかしたら事故が起きたとしても気づかないかもしれない大衆と。どちらもひどく気味が悪くてうつむくと、コツ、と姉御の靴の踵が鳴った。

 その足元を中心に、高く澄み渡るような鈴の音が耳の奥に響く。

 梅雨の湿気とともにどこか淀んでいた空気が一掃され、清浄な風が広がっていった。


 呼吸が楽になる。これが姉御に特有のの力だった。

 師匠をして『化け物レベル』と言わしめる見鬼に加えて、神霊に近しいのではとさえ畏れさせるほどの浄化体質。普段は意図してその性質を制御している彼女なので――綾人には「見鬼や体質を制御する」という時点でもう意味が解らないが――、この浄化の力を見るのは二度目だった。


「楽になった?」

「すみません。……ありがとうございます」

「ううん。変なこと言ってごめんね」


 姉御はたまにああいうことを言う。

 それは師匠も同じだった。

 本当に怖いのは生きた人間だ、などという話のオチはよくあるし一理あるが、そんなことを断言できる人には所詮生きた人間しか見えていない。視えてしまう綾人たちにとって本当に怖いのは、此岸の理屈や常識が一切通じない彼岸のものたちだ。


 生きた人間は殺せば死ぬ。

 だがああいうものは、近づかないことや追い払うことはできても、殺すことができない。

 だから我々にとって本当に恐ろしいのは生きていない方のものなのだと、師匠はそう綾人たちに教えている。


 それなのに、この年上の二人は時折ひどく人間を憎んでは、彼岸のものたちを慈しむような物言いをする……。


「姉御、訊きたいことがあるんです」


 電車の接近に伴って軽快な音楽が流れ始めた。

 今度こそ、綾人や姉御が乗るべき普通電車がホームに到着しようとしている。


「姉御くらいの力があったら、例えば死んだ身内とかにも会えるものなんですか」


 彼女は穏やかに微笑んだまま小首を傾げた。

 動作の一つ一つが、そのまま映画のワンシーンになりそうなほどの美しさ。それはもしかしたら、人間ではないほうに近いからなのかもしれない。


「会いたい人には会えない。そういうものなのよ、きっと」


 姉御にも、会いたい人がいるんだ。彼女の見鬼は綾人の想像も及ばないほどに強い、そんなこの人にも、視えない存在があるのだ。

 彼女の返事にそれを悟って、綾人は問いを重ねる。


「会えるとしたら、姉御は誰に会いたいです?」


 答えはなかった。

 ただその柳眉を僅かに下げて、塞がらない傷口を指先で押さえるかのように、痛々しく口元を歪めた。


「ないしょ」


 本当に恐ろしいのは彼岸のものだと綾人に教える、その張本人たちが向こう岸に惹かれている。

 だから危なっかしくて、傍を離れる気になれないのだった。

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