g アイスを買い忘れて師匠にしばかれた

 あのあと無事に第三講義室に放置されていたUSBを回収し、また変なところに着いたらたまったもんじゃねぇと階段で一階まで駆け下りた。

 一分一秒でも早くあのお化け屋敷に帰りたくて急いだ結果、アイスを買い忘れて師匠にしばかれた。


「なんなんですか! あれ!」


 師匠の扇子で額をぺしっと叩かれた痛みで涙目になりながら噛みつくと、彼はUSBをノートパソコンに差しながらこてりと首を傾げる。


「楽しかったかい?」

「楽しいもなにも! 怖くて泣くかと!!」

「おやおや、それはよかった」


 ひとつもよくねぇ!!

 ソファにふんぞり返った師匠は絹のような黒髪をさらりと揺らし、形のいい唇をきゅっと釣り上げて愉しげに笑う。


「あそこねぇ、ユキ大屈指の心霊スポットなんだよ。かつて集団自殺があったという噂があってね、呼んでもいないのにエレベーターが来るとか、ある条件下で飛び降りを繰り返す職員の霊が出るとか色々起きるんです。昨日もあったんでしょ、飛び降りのデマ騒ぎ」


 ぱちりと瞬いて、綾人と巽は顔を見合わせた。

 師匠の言うそれはまさしく、千鳥が教えてくれた一件のことだろう。


「あれ、毎年恒例なんだよ。この時期の新入生にだけ視えるそうで、上回生や教授たちはみんな慣れてる。あれが起きると『ああ、梅雨も深まってきたな』って気になるね」

「そんな季節の風物詩みたいに言わんでください」


 金髪元ヤンが情けない声を出した。

 師匠はご機嫌でレポートを進めながら「まァでも大したことなかっただろ?」と嘯いていたが、あまりにも弟子たちが沈んでいるので不思議に思ったらしい。ぱちりと左目をしばたたかせて二人の顔を覗きこんだ。


「おやまぁ、そんなに怖かったの。しょうがないね、はいご褒美」

「ごほうび……?」


 師匠の白い手が前髪の下に差し込まれる。

 顔の右半分を覆い隠していた長い髪をこともなげに掻き上げて、その下に隠されていた目を露わにした。

 息を呑んで凝視する。



 そこにあったのは、何の変哲もない右目だった。

 いつも見えている左目と同じく、形のよい目尻に長い睫毛が生え揃っている。瞳は人より少し薄い茶色をしているが、至って普通のものであった。



「……なんもないじゃないですか」

「うん。普通だろ」

「呪われてるって……」

「うん。厨二病って胸をくすぐるよね」

「それ自分で言うもんじゃないっす」

「大体師匠もう大学三年生でしょ」


 前髪を下ろし、指先で二、三度撫でつけた師匠はまたパソコンに向き直る。

 なんだかどっと力が抜けてしまい、綾人はソファの背凭れにぐったりと体を預けた。


「もー、あんな現象が起きるなら先に言っといてくださいよ。帰ってこれないかと思ったじゃないですか」

「そんな大袈裟な。エレベーターが来るくらいで」

「いや師匠、校舎が迷路になったり幻の七階に連れて行かれたりするのは大袈裟じゃないだろ……」


 巽の文句を聴いた師匠が顔を上げた。


「は?」

「……え?」


 驚嘆の声に、弟子二人で顔を引き攣らせる。

 まるで「校舎が迷路?」「幻の七階?」とでも言いたげな表情ではないか。


 お化け屋敷に帰りついて安心しきっていた綾人は、再び背筋が粟立つのを感じた。思わず隣にいた巽のシャツを掴むと、目を丸くしている師匠が口角を釣り上げて愉快そうな笑みをつくる。


「へえ、校舎が迷路になって幻の七階が出現ねぇ」

「言っとくけどもう二度と十一号館には行きませんからね」

「いやそれは初耳だったな。いままでの怪現象の発動条件も謎だったけど、きみたち二人しか体験していないそれはもっと謎だ。これは調査が必要だね?」

「ぜぇぇぇったい行きませんからっ!」



***



 その後、師匠が調査してきたところによると、やはり幻の七階の存在を知る者は一人としていなかったらしい。


 断固拒否する弟子二人に痺れを切らした師匠が夜ひとりで突撃したり、何も知らない他の人を使って挑戦させたりしてみたものの、綾人たちが迷いこんだあの場所には誰も辿りつかなかった。幸運なことに十一号館での講義は四年間なかったため、なんとか無縁のまま卒業することはできたが、いまでもあの夜のことは謎のままだ。


 余談だがこの出来事のあと、綾人と巽はエレベーターに乗るのが怖くなってしばらく階段ばかり使った。

 夏休みが始まるころには二キロ痩せていた。


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