第二五四編 愚者の友人


 基本的に興味のないことを記憶に留めることをしない少女の中に、綺麗に形を保ったまま残っている言葉がある。


『俺は桃華ももかに惚れた。でもそれ以前に、何度もアイツに救われてるんだ。あの笑顔に、数え切れないくらい救われてきたんだ。だから俺は、桃華には誰よりも幸せになってほしい』


 それは愚かな彼の言葉。


『桃華が好きなのは、久世くせだから。だったら俺は――俺のくだらない失恋くらい、いくらでも受け入れてやる』


 いつまでも他人ひとのために動くことしかしない彼の言葉。


『だから俺は、こんなことしかしてやれない……! 桃華アイツが気付いてくれなくたっていい……感謝されたいわけでも、幼馴染みとして、友達としての好意が欲しいわけでもない……!』


 悲痛で、理解しがたい愚者の言葉。


『俺はただ、桃華に幸せになってほしい……! 桃華アイツには、こんな胸の痛みを味わってほしくない……! ただ、それだけなんだよ……それだけ、だったんだよ……!』


 ――誰よりも近くで見てきた、たった一人の友だちの言葉。


「……だから貴方は、愚かだと言うのよ」


 柄にもないことを口にした少女は目の前に立つ彼――小野悠真おのゆうまの姿を見て呟きを落とす。

 疑問。他者からの不躾な視線に苦しみ、他人ひとを遠ざけて生きてきた七海未来じぶんとさえ対等な関係を築いたにも関わらず、どうして彼は桐山桐山桃華のことになると一方的に傷付こうとするのだろうか?

 疑問。影に潜み、陰に隠れ、決して本人にバレないように動いてきた彼は、本当にこのままでいいのだろうか? 得るものもないままに、今後もなにも知らない顔をして彼女と接していくつもりなのだろうか?

 疑問。それとも恋愛レンアイというのはそういうものなのだろうか? 惚れた相手のためならどんな艱難辛苦かんなんしんくも乗り越えねばならぬものなのだろうか? 相手は自分のために、なにもしてはくれないのに?

 疑問。だとしたら恋愛レンアイというものはなんと〝損〟なものだろうか。なんの見返りも――なんの利益メリットもないもののためにこうも傷付かねばならないなんて。……いや違うか。特殊なのはあくまでなのだ。だって少なくともこれまで七海未来じぶんに好意を寄せてきた者の内、誰一人としてこんなふうに必死に想ってくれたりはしなかったではないか。


「(……だとしたら、彼は――)」


 疑問、疑問、疑問――……。

 それはたくさんの〝疑問符どうして〟の塊。他人ひとを遠ざけたがゆえに本の中に無数の〝価値観〟を求めた少女は今、他の何物よりもあのたった一人の愚者の〝価値観こころ〟を知ることを欲した。


 どうして彼はいつまでも変わらない?

 どうして彼は、いつまでも変わってくれない?

 今の貴方はとても苦しそうだと伝えたではないか。

 傷付くところはもう見たくないと言ったではないか。

 どうして楽になろうとしない? どうして最も苦しい道を選び続ける?

 どうしてそこまで彼女を想う、どうしてそこまで彼女に尽くす?

 疑問符どうして疑問符どうして疑問符どうして――……


「(どうして――よりによってなのよ)」


 七海未来じぶん中身ことを見てくれる彼ならば、あるいは未来みらいもあったかもしれないのに。今日になって初めて、ずっと知らずにいた彼が抱える〝痛み〟の片鱗を味わうことが出来たかもしれないのに。

 それともこれは、彼が自らの手中には収まらぬと知ればこそなのだろうか。隣の芝生しばふは青く見えてしまうものなのだろうか。……分からない。ただ、頭の奥で警鐘けいしょうが鳴っている。

 それは小さくも耳障りな音だった。利己的だった七海未来じぶんが最も聞き慣れぬ音。そんな耳障りな雑音ノイズが、「また傷付きたいのか」「己のために生きろ」と告げてくる。

 確かにその通りだ。「どうして」と言うなら、ずは己の言動に対してだろう。


「最後くらい、貴方は貴方のために行動してもいいのではないの?」


 どうして一度ならず二度までもそんなことを言ってしまったのだろう。気紛れなどではなく、明確な意思に基づいて。七海未来じぶんにはなんの見返りも――なんの利益メリットもないのに。

〝損〟しかしないのに、それでもいいと思ってしまうのはどうしてなんだろう。


「(……もしかしたら貴方も、こんな気持ちだったのかしら)」


 それもやはり、分からないけれど。

 でも今はこれでいいと思った。自分のことは、後でいい。

 彼の一番近くに居た者として、〝契約〟相手として、友人として。周りのことしか考えていない愚者に、別の道もあることを教えてあげられるのはきっと七海未来じぶんしかいないから。

 それに、きっと彼は……。


「(……いえ、は私が考えることじゃないわ)」


 自分の手が届かないところまでどうにかしようとする必要はない。自分が言いたいことを言い、自分が正しいと信じたのなら。

 は、彼が決めること。

 未来みくに出来ることは、狭まった彼の視野をほんの少し広げてあげることだけ。別の道の存在を示してあげれば、後は彼が自分で考え、悩み、決断するから。

 彼が自分で下した決断なら、きっとそれが一番〝正解〟に近いと信じている。なにせ彼は、七海未来ななみみくが認めた友人なのだから。



「――――」

「……そう。本当に変わらないのね、貴方は」



 だったら、それ以上はもうなにも言うまい。

 きっと彼が思考した時間は数秒にも満たなかっただろう。ほとんど即断即決だった。知らぬ者が見れば適当に決めたとさえ思われそうなくらいに。

 しかし未来みくには分かった。このたった一つの質問が、彼の顔から迷いを消したことを。気持ちの整理がついたと言うには、まだ心許こころもとない表情だけれど。

 それでも彼は真剣に考え、悩み、そして――最後の決断をしたのだと。



「――なにも言わないよ。俺は最後まで、ただの幼馴染みのままでいたいから」

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