1999年7月30日
「ラッキーブッダですって?そんなの聞いたこともないわ」
エマは眉を吊り上げた。
そういう詐欺がトゥクトゥクドライバーの間で流行っているらしい。<ガイドブックには出てないが、地元でご利益があると信じられているすごい仏像がある>などと外国人を連れ出し、そのまま高級宝石店やタイシルクの仕立て屋へと誘引する。
確かにすべて@マークにしか見えないタイ語の綴りを指さして、「これこそがラッキーブッダ様なり」と言い切られてしまえば、外国人はそのまま受け入れるしかない。感心している場合ではないが、今になってオッサンの「世の中にタダのものなんてないよ」という言葉が沁みる。
「いいんだ。とりあえずエマの幸せを祈ってきた。それで十分だ」
何も買わされていないし、楽しい暇つぶしになったのだから文句はない。
ところがエマは冷たいハスの実のお茶を一口すすると、瞳に注射針のような冷たさを宿してほほ笑んだ。
「あなたにはプライドってものがないの?騙された上にヘラヘラしちゃって。ハッ!まったくおめでたい人だこと」
冷厳な顔から小馬鹿にした笑いが返ってきた。
そして「よくもアタシのダーリンをそんなふざけた場所に連れて行ったわね」と宙に向かっていうと、エマは首の下に突き立てた親指を鋭く横に切った。
トゥクトゥクのオッサンよ。いますぐアクセル全開でこの街を離れるがいい。今日もカオサンロードで外国人なんかに声をかけていると、ここにいる女パンサーがオマエの頸動脈を喰いちぎるだろう。
なるようになるさと鷹揚に構えている俺と違い、元エリートのプライドが彼女の言動を極端なものにしている。その聡明さゆえ、世の中すべてがスローモーションに見えてしまうらしい。
知り合って数日が過ぎた。唇を重ねた以上の進展は、まだない。
洋酒のような情熱とパサパサに乾いた部分が、エマの中で同居している。その食感の違いこそ彼女の持ち味なのだが、とりあえず彼女の前ではお馬鹿な男でいようと決めている。しかしこの芝居じみたやり取りは恋愛といえるのか――。
「どうせ誰もアタシのことなんて理解できないわ」
そう嘆くことで、エマはどうにか自分を保とうとしている。
だがもし男と女として次のページをめくるなら、映画の字幕のような格好つけたセリフなどいらない。普通に笑う平凡さで十分だ。ランブータンのように毒々しい刺で身を守るのではなく、甘さも渋みも全部さらけ出せばいい。
すべてを共有できるまで時間がかかるかもしれない。特にエマの場合、そのアク抜きだけでも相当時間がかかりそうだ。だがそれでいい。それまでおあずけでも構わない。
「――へぇ、あなたはジャーナリストになりたいのね。素敵じゃない」
アイスクリーム屋のテーブルで向かい合ったエマは、すくったレモンシャーベットにうっとりとした声をあげた。
「だが俺の専攻は言語だ。このまま通訳法や翻訳法の単位を取ったところでやりたいことにはつながらない。このままでいいのか悩み始めている」
正直な気持ちだった。ジャーナリストや記者というのはいささか飛躍はあるが、本当は中国語を学ぶ理由そのものが色褪せてしまった。これ以上細かいニュアンスを覚えたところで、それを活かし、深く理解し合いたい人がいなくなってしまった。
もちろんすべて
「――今の勉強が役に立たないですって?それは間違っているわ」
エマは姿勢を正すと冷めた視線を向けてきた。
「まず今の専攻で満点を取ってからにしなさい。今いる場所で頑張れないのは、現状からキレイに逃げたいだけでしょ。慎重なフリをしているけれど、単なる甘えに過ぎないわ」
あまりにもピリ辛すぎて、俺は目をパチパチさせたまま固まってしまった。
だがエマは正しい。夢を持つことが悪いわけではない。しかしそれらのせいにして、目の前のものが中途半端な仕上がりになってしまうことを彼女は指摘している。
エマはフッと笑うと、打って変わって俺の頬に手の平を優しく添わせた。
「――あなたには行動力がある。賢さよりもそれを伸ばすべきよ」
チクリとするものが含まれていたが、さりげないフォローに救われた。
「それにしても繊細な指先ね。大好きなあなたの肩や背中の筋肉からは似合わないほど、真っすぐで気品のある指先だわ」
エマは俺の手の甲をいとおしそうに撫ぜた。
「でも指先のきれいな人は感情に振り回されやすい。知性よりも感情が先走ってしまうから。時としておバカな行動に出て損をするから気を付けなさい」
言って、エマは軽く俺の手の甲をつねった。
「部屋に戻ったらその繊細な指先がおバカな行動に出るかもしれないぞ」
そんなことされたら困るわ、とエマは首を振りながら笑った。
やられっぱなしではなく少しは反撃してやらねば。
俺はエマの手を取ると、「部屋に戻って話の続きを聞かせてくれ」と微笑んだ。
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