第3話




 遊馬さんからのお礼という、衝撃的な事件が起こり、僕は思考回路がおかしくなっていた。

 今朝は起きてから、色々とおかしなことが多い。

 まるで僕を試しているみたいだ。



 ほうけている間に、遊馬さんはどこかに行ってしまって、僕は一人になっていた。

 まあ、彼の目的はお礼を言うことだろうから、いなくなってしまうのも当たり前か。


 一人取り残されていた僕の元に、千秋さんが近づいてきた。


「あの……相神様は、いつ頃起こした方がいいのでしょうか? 朝食を全員でと、りんなお嬢様が申しているのですが……」


 本当に申し訳なさそうに、彼女はそう言ってくる。

 あと一、二時間ほどは寝かせておきたかったので、少し考えてしまう。

 それでも、りんなお嬢様からの申し出だから、断るのも失礼か。


「あー。起こしてみますけど、あまり期待しないでくださいね。あと、起こしている最中は、誰も近寄らせないでください」


「え、ええ。かしこまりました」


「絶対ですよ。そうしないと怪我をしますから」


「は、はい……」


 いぶかし気な視線を感じながら、僕は布団が敷かれている場所に行く。

 一つだけ山になっていて、微かにだが上下に動いている。

 そこに緋郷がいるのは当たり前のことなので、僕はすぐ脇に近寄ると、しゃがみ込んだ。


 少し緊張している。

 緋郷を起こすのは、随分久しぶりだ。

 体がなまっているので、もしかしたら僕も怪我をする可能性がある。


 深呼吸を、一度する。

 そして、ゆっくりと盛り上がった部分に手を置いた。


「緋郷、起きて」


 最初はゆっくりと、体を揺らす。

 何の反応も無い。


「緋郷、もう朝だから、起きて」


 今度は少し強めに揺らす。

 少しだけ山が動く。しかし、まだ力が足りないみたいだ。


「緋郷! 起きろ!」


 大きな声を出して、勢いよく揺らした途端、やっと反応が返ってきた。

 それは可愛らしいものでは無い。

 布団の中から出て来たのは、緋郷ではあったが彼の拳だった。


 空気を切るような音を出しながら、僕に真っすぐ飛んできたそれを、僕は何とか右に避ける。

 しかし、攻撃はそれだけでは終わらない。

 拳が当たらなかったのが分かると、次は足が出てきた。


 足元を薙ぎ払うかのように、水平に足払いをかけられそうになり、慌てて後ろに下がった。

 そうすると布団の中から、舌打ちが聞こえてきた。

 これ以上、拳や足が出てこられて避けられる自信が無いので、僕は覚悟を決める。


「いい加減に、起きろ! 緋郷!」


 怒りを込めて叫ぶと、勢いよく飛んだ。

 そして、そのまま膨らんでいた部分に向かって、蹴りを入れる。

 上手く入ったのを感じ、そして布団の中から緋郷の声が聞こえてきた。


「痛いよ。何、どうしたの?」


 その声は機嫌の悪いものでは無かったので、安心しながら僕は更に声をかける。

 ちゃんと、上からどいた。


「もう朝で、これから朝食だから起こした。一応、七時間は寝ただろ。健康上に、問題は無いよ」


「そうはいってもさ、人がぐっすりと寝ているところを起こすのは、野暮ってものだよね。もう少し、寝かせてくれても良かったじゃないか。俺抜きで朝食を食べれば、良かったでしょ」


「そうもいかない事情があったんだよ。だから、ほら起きて」


「えー。そうもいかない事情って何? 俺の睡眠よりも大事なことなの?」


「そうだね。りんなお嬢様の希望だから。一緒に朝食を食べるよ」


「ふわーい」


 大きなあくびをして、緋郷は布団の中から出て来た。

 そして僕を一睨みすると、しぶしぶと言った感じで立ち上がる。


「はーああ。眠い。もっと眠れたはずなのになあ」


 当てつけるように大きな声で言われるが、いつもよりは怒っていないので無視をする。

 緋郷も年なのか、動きに切れが無くて助かった。

 そのおかげで、今回も当たらずに済んだ。

 一発でも当たっていたら、大ダメージだった。


 体が無事なのを確認し、僕も立ち上がった。

 勢いよく布団の上に飛び乗ったのは一種の賭けだったが、上手くいって良かった。

 今度同じような状況になった時は、たぶん学習されて使えないだろうが。


 一番初めに起こして、蹴りがお腹に綺麗に入ったことを思い出す。

 蹴られてから十分以上は動くことが出来なかったし、その後一ヶ月ぐらい青あざが消えなかった。

 あれは、もう二度と経験したくない。


 その時の痛みを思い出して、お腹を押さえた。

 今までで一番痛かったのがあれというのも、僕は平和に生きていた証拠なのかもしれない。


 僕の体には、切り傷や銃創など、そんな傷は全く無い。

 そして緋郷の体には、それがある。

 前に着替えを見たことがあるから、確実だ。

 しかしその傷が、いつどこでどのようについたものなのか知らない。


 傷がついたのは僕と出会う前のようであるし、どうしてついたのか聞いたことは一度もない。

 本人は傷について全く気にしていないから、多分聞けば答えてくれる。

 でもだからといって、わざわざ聞くことでもないだろう。


 大きなあくびをもう一度しながら、歩く緋郷の背中を見ながら、僕はその服の下にある複数の傷について思いを馳せた。




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