《74》 味
金曜日。
今日は学校が終わり次第、舞那が家に泊まりに来る。それだけを楽しみに、心葵は授業を乗り切った。お陰で授業にあまり集中できていなかった様子である。
時間は過ぎ、気付けば昼休み。生徒達は昼食を開始している。
しかしその中で1人、心葵は何も食べようとしていなかった。
「あれ?
「うん……最近食欲無くて……」
嘘をついた。
食欲自体はある。しかし翼を生やして以降、口にするもの全ての味が薄く……否、味がしなくなっていた。
好きなものも嫌いなものも味がしない。そのうち心葵は「何も食べようと思えない」ような精神状態に陥ったが、空腹には抗えず、味のしない料理を食べ腹を満たした。
さらに昨夜あたりに気付いたのだが、心葵は味覚以外のいくつかが僅かながら鋭くなっている。目がよく見え、音がよく聞こえ、匂いの違いをはっきりと理解できる。
ただ一つ、痛覚が鈍っている。昨夜心葵は、足の小指を柱に強くぶつけた。普通ならば激痛に顔をしかめるが、心葵は痛みを感じなかった。
他にも、午前中にカッターで指を切った際も、血が流れるまで切ったことにすら気付いていなかった。
「そっか、千夏ちゃんが……でも食べんとまた入院することになるよ?」
「……うん、ありがとう」
友人は、千夏の失踪により心葵の食欲が失せているのかと思っていた。心葵の嘘を見抜けなかった。
(お腹……空いた……)
◇◇◇
インターホンが鳴り、心葵は玄関のドアを開ける。そこにはバッグを持った舞那が立っていた。
「舞那……」
「来たよ……って、どうかした?」
舞那は気付いた。心葵の様子がおかしいことに。
「……入って」
舞那は心葵の自室にまで誘導され、直後に心葵は部屋のドアを閉めた。数秒の沈黙を挟んだ後、心葵は舞那に勢いよく抱きついた。
「ちょ、心葵! まだお風呂も入ってないのに……って、心葵……?」
舞那に抱きついた心葵は、舞那の胸に顔を埋め涙を流す。
心葵の身体の震えは舞那に伝わり、肌を通して心葵の恐怖心を理解した。そして、心葵の感じている恐怖心の原因も理解した。
「……心葵、いつから?」
「……はっきりと現れたのは、この前千夏と会えた後。多分、渦音でプロキシーに噛まれた日からもう症状は出てた」
先日カップ麺を食べた際、味が薄く感じられた。気付いていた。自分の身体に異常が現れていると。それでも心葵は、自分の舌が肥えたのだとそれを否定した。否定することで、心葵は自分を保てた。
しかし味覚障害に陥り、その他の異常が身体に起こった時点で、心葵は否定することをやめた。
「何食べても味がしないし、そもそも食べたいと思わない。なのに……人を見たらお腹が空く。私もう……人じゃなくなっちゃった……」
千夏はプロキシーになった時、心葵に人間を捕食したことを打ち明けた。千夏が人間としてのラインを越えてしまったことで、当時の心葵はとてつもない衝撃を受けた。
そして今になって心葵は、千夏が感じていた食人衝動を、千夏が堪えようとしていた衝動を理解した。
もう人間ではない。心葵は自覚していた。自覚し、絶望した。
舞那は心葵の気持ちを察し、
「……心葵、私でよかったら食べていいよ」
自らを心葵へ捧ぐことにした。
「っ!? そんなことできない!」
「いいよ。私達だって、牛や豚を食べて生きてる。人を食べちゃいけないって……誰かが決めたわけじゃない」
以前、メラーフは雪希に対して「誰が定めたかも分からない偽りの常識を持つ人間が、プロキシーの共食いを否定できるかい」と発言した。舞那はその場にいなかったため、その発言は知らない。
しかし舞那はその発言と同じ思考に至り、人間のタブーであるカニバリズムを否定した。
「プロキシーに食べられるのは嫌だけど、心葵なら嫌じゃない。それとも、心葵は私じゃ嫌?」
「そういう訳じゃ……でも、舞那を傷つけてまでお腹を満たそうとは思えない……」
「……前にも言ったでしょ。私の好きな人は心葵。好きな人に食べられるなら……それで心葵が満たされるのなら、私は満足」
舞那の言葉には曇りも偽りも無く、いつも通りの笑顔を心葵へ向けた。
「でも……絶対痛いよ」
「大丈夫。心葵だったら、私は痛みを感じないから。ほら、食べて……」
舞那の笑顔を見るうちに、心葵は歯止めが 効かなくなっていった。
心葵の中で「食べたい」と「食べたくない」がせめぎ合うが、最終的に舞那の言葉を受け入れた。
「……ごめん……ごめん……!!」
心葵は舞那を押し倒す。ベッドでは無く床であったため、舞那は後頭部と背中に衝撃を受けた。
心葵は構わず、本能に身を任せる。
「んっ……」
心葵の舌が舞那の左腕の上を這う。そのまま心葵は舞那の腕にキスをする。さらに口を付けたまま、舌で腕を舐める。
そして、
「~っ!!」
心葵は舞那の腕に噛み付き、患部から溢れる血を吸う。その姿はまるで、生娘の鮮血を啜る吸血鬼のようだった。
心葵の歯はそのまま腕の肉を抉り、喰いちぎった。
舞那は激痛と叫びを堪えるため右手を強く握り、血が出るまで唇を噛んだ。骨まで達した歯型は生々しく、常人であれば耐えられないような痛みを舞那に与える。
心葵は舞那の肉を咀嚼し、涙を流しながらそれを飲み込んだ。
「……こんなに辛いのに、悲しいのに……なんで、こんなに美味しいの……」
血の味。皮膚の味。肉の味。舞那の味。ここ数日何を食べても味がしなかったが、ここに来て心葵は数日ぶりに”味”を感じた。
今まで食べたどんなものよりも、舞那の肉は美味であった。しかし初めて味わった人肉の感想を述べるには、普段人類が理解し使用している言語ではとても言い表せない。
「でも……できないよ……好きな人を食べるなんてやっぱりできない!!」
舞那は、食事を拒絶した心葵を抱き寄せる。
その際心葵は、舞那の匂いに再び理性を失いかけた。
(舞那……いい匂いがする……)
今までの心葵であれば性欲を抱いていた。
しかし今の心葵では、性欲は食欲へと変換されてしまう。
「私を食べることが罪なら……私がその罪を背負ってあげる。だから……好きなだけ、私を味わって」
舞那は心葵に食事を促し、その笑顔を見た心葵は、本能に抗えず再び腕に口をつけた。
そして今になって心葵は、千夏がどんな気持ちで人を捕食したのかを理解した。
(舞那……私……)
この日、舞那の左腕の肉が減り、出血多量により舞那は気絶した。
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