ニートの雑感

宇部透樹

第1話 絃の代用品探し



 精霊の踊りをA線で弾いていたら突然弦がプツンと跳ね飛んで顔に襲いかかってきた。ほつれた何本ものスチールがぐるぐる螺旋を描きながら、眼球すれすれの空中を勢いよく舞う様がスローモーションになって網膜に刻まれた。

 形見のバイオリンを抱えてがっくし項垂れながら原因を考えた。この三千円の中華弓のせいだろうと早合点に納得する。

 弓はブラジルウッドの外材を用いて作られたらしく、しなりが悪く十分な強度がない。そのくせ弓先を丸く細身にカットしてあるのでより張力が削がれている。毛をピンと張るのに荒療治が必要で、ようはハンカチをかませたペンチを使ってスクリューを力いっぱいねじ込み、軽く反っていた弓がまっすぐな棒のように突っ張るまで毛を引き込んでやればいい。これでやっと十分な強度が出て弦が鳴るようになる。毛や木材への負荷は計り知れないし、いつか演奏中にバキッとヘッドがもげるかも分からない。

 どれだけ強くスクリューを巻き込んでも普通の弓にはある程度のしなりがあって弦との緩衝性は保たれているように思われる。やはり棒のようにピンと背伸びしたカチカチの安弓で擦ったせいで弦が衝撃に耐えられずに断裂してしまったに違いない。ピラストロもそんな乞食の環境を汲んで弦など作っていない。

 この事件のせいでニートの自分にとってはかなり深刻な課題と顔を突き合わせる事となった。近所の楽器店で買うと弦がくそたかいのである。(子供の頃四五千円だったのがいつのまにか六千八千するように。これがなぜかネットだとかなり安いw)

 しかも大概の絃が在庫置きっぱなしで老朽化しているくせに、値段だけは市場にしっかりと張り付いた、もしくは少し盛ったくらいのくそ優しいお値段で、もう何をもってしても手に入れられる代物ではない。

(ニートを免罪符に働きたくないでござるを連投するような俺を許してください)

 こんなどうしようもない適当な理由から、あまり気乗りしないままに失われたバイオリンの絃の代用品を探し始めた。

 クラシックギターのスチル巻き線(第六弦)があったので、とりまバイオリンに張ってみた。何をもってしても鳴らない。松脂を50回擦り込んでも鳴るどころじゃないのだ。何というこの弓毛の摩擦力を峻拒するひっかかりの悪さよ。

「あーあ。やめーた」

 俺は急な無気力になるとバイオリンをソファの上に投げ出して、全身の骨が金属にでもすり替えられたような重苦しい疲労のままに床の上にぐったり寝ころんだ。そして十字架に張り付けられたみたいに両手足を広げて大の字になり、木目の荒い天井をぼんやり見上げながら生きることのやるせなさに深いため息を吐く。

「もうなんでもいいや」

 誰もいない孤独な雰囲気の中で独り呆然とつぶやくと、床に頭をつけたまま手だけのろのろと動かしてソファの上にある楽器を掴んで胸の上に置き、もう片手でそばにぶっ転がっていた弓を取り上げて適当に弾いてみた。50回擦った松脂がいくらかなじんだのか、今度はかすかながら弦が震えた。

 なんとなく鳴るんじゃないかと馬鹿みたいに元気づいた俺の頭にそのときふと黄色い電球がチカリと灯り、「弦の駒前を紙やすりでツルツルにして見れば鳴るのでないだろうか」という阿呆臭い閃きが降りてきた。

 ツルツルに磨かれて赤銅色に煌めくギター弦をまた改めてバイオリンに張ってみた。柔らかめの松脂をたっぷり摺り込んで食い付きを良くしたら鳴るには鳴る。だが音が底なりで楽器の共鳴胴全体がジリジリ震えてノイズがかり、バイオリンらしい艶のある音というよりは、砂の入った重たい筒を鳴らしているような渋くつまらない音になった。逆にピラストロやインフェルドの絃ってすげーなって言う感慨が切ない思いで胸に迫った。

 バッハおじさんの管弦楽組曲三番のエアを単弦で弾いてみる。無茶な弦を張られて無理やりに鳴かされたバイオリンは、まるで人体錬成で呼び出された化け物みたいな低くおぞましい奇声で、だけどちょいチェロ感のある渋い音で旋律を奏で始めた。意外にも弦がやらかいので指先への張り付きがよく、ビブラートがかけやすいのはあるw。しかも耳がマヒしたのか、これがだんだんいい音のように聞こえてくるww。

(しかしこれは耳を抑えたくなるようなすごい爆音だったらしく)

「ドンドンドン」 

 薄い壁の向こうの住人が怒りを込めた握りこぶしで壁をたたきならす。その音で俺は我に返り、一杯に膨らませた風船がしおれる様なさめざめした気持ちでバイオリンを弾く手をやめ、そっと引き抜いた弦を手のひらで丸めて壁にぶん投げて、

「やーめた」

 また無気力になってぼんやり天井を見上げ始める。バイオリンを休ませる時間がきたとかいう適当な理由でっちあげてキーボードでも弾こうかな。どうせニートだし。 悠長にコップの水をすすると、人生はかねえやとかいうくたびれた爺みたいな事をつぶやきつつ、次やることをとつおいつ考え出した。そのときは丁度夕方の六時で、近所の焼鳥屋の換気扇が回りだす頃だった。焼き鳥の香ばしい煙が立て付けの悪いガラス戸をすり抜けて部屋の中に忍び込んでくる……。炭火のもとに濃密に溶けあった砂糖と醤油のかぐわしい香り、旨そうな油を滴らせ飴色にてらてら輝いた分厚い鶏肉……。

 こんな感じで身もだえる程に腹が減ったので、水と塩を振りかけた温かいご飯、(水かけご飯。ニートの定番メシ)を貪り食ってやり過ごす。絃の代用品探しはいつのまにか等閑になっていたが……。

 調べたらフロロとかいうナイロン製のワイヤはかなり響きが良いとかなんとか。紙やすりで細かい傷をつけて相応に松脂を塗り付けると、ガジガジするけどそれなりの良音で鳴るらしい。

 そして調べても調べてもないのでギターの六弦をやったのは自分が初めてなのかもしれぬ。まあ楽器の表版にかなりの圧力が掛かって陥没やジョイント割れなどのリスクが高まるのでギターの絃はバイオリンに張らないほうがいいという感想。さすがにアジャスタに通せないのでペグで調音してたらあまりの絃の張力の強さにガチャンと駒が倒れたので、運が悪かったら魂柱が倒れてたかもしれない。弦で遊ぶのは本当に危険。

 以上良くわからん何だこれな話。

 

 

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ニートの雑感 宇部透樹 @morilrei

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