詞なき歌

 それまで黙々とアスピラスィオンの梯子を上っていたイニャスはふと、自分の頭上に視界がなくなりそうなくらい広大無辺な白い雲の塊があることに気が付いた。

 その中央というべき所には大きな黒い穴がぐわっと開いていた。

 それを最初に見たイニャスは案内犬、ジェジェーヌ・クーレに訊いた。

「あれは?」

「あん! たぶん、あれが『エール・スィエル・アスピラスィオン あこがれの翼空』だ。私も一度も行った事がないがまあ、心配はいらないだろう。その黒い大きな穴がこの空国の入り口だろうな」

 とジェジェーヌ・クーレはイニャスの背中でそれを見上げながら言った。

「あそこが!」

 ファブリスの言葉には少し不安が混ざっていた。

「あの木と同じか」

 イニャスはそう言ってフェ・プレズィール国に唯一、生えているスリズィエの妖精サイズの階段の出口を思い出した。

 そして、ジェジェーヌ・クーレと共にその穴を目指して進み、とうとう、アスピラスィオンの梯子を上り切ったのであった。

 ファブリスもそれを見てからだった為かイニャス達より少し遅れたがその後に続き、その大きな黒い穴の中に入って行った――。


 すぽっ! という音と共にイニャスはジェジェーヌ・クーレと一緒にそれぞれの頭を穴の中から出した。

 それから少し遅れてファブリスも最後のアスピラスィオンの梯子の横木を上り切り、イニャス達同様やはりすぽっとその穴の中から顔を出したのであった。

 そんなファブリスを見ていたのはエール・スィエル・アスピラスィオンに少し先に着いていたイニャスとジェジェーヌ・クーレだけではなかった。

 その国に住んでいると思われる十五人の住人達が集まって並んでいた。

 よく見るとエール・スィエル・アスピラスィオンの住人達は皆、すっと吸い込まれそうなほど一瞬、一瞬の輝きを秘めた色とりどりの空の色を表したような生地をゆったりと着ていた。

「ようこそ、アスピラスィオンの梯子から来た子よ」

 そう言って一人の男が手で指揮を始めた。

 それを見た十四人の住人達は一斉にそれぞれのパートを歌い始めた。

 もちろん、指揮をする男も歌っている。

 それを聞きながらファブリスはイニャスの手に導かれてやっとエール・スィエル・アスピラスィオンの地に立つことが出来たのであった――。


 現世界にいるデフロットは何をする訳でもなくただ自分の部屋でこれまで集めた『自由な童話』を開いて読んでいた。

 そこにデフロットが頼んでおいたお茶を持ったセリアがやって来た。

「デフロット、何を読んでいるのですか?」

 そう言うセリアにデフロットはその本を見ながら言った。

「これですか? この本には今は亡き彼女を助けようとした男が代金として支払った『曲』が書かれているんです」

「え? それではいけないのではないですか!」

 とセリアは興味本位にその本を見ようとした。

 だが、デフロットはセリアにその本を見せなかった。

「いや、良いのです。彼の音楽は物語そのものだった。だから、僕は彼に薬を渡した。彼は音楽のセンスだけは良いですからね」

 そう言い終わるとデフロットはセリアが持って来たお茶を一口飲んだ。

「実に優しい味だ」

「そんな!」

 セリアは少しデフロットの言葉に顔を赤らめた。

 そういえば、砂糖抜きだっけ――。

 

 エール・スィエル・アスピラスィオンの住人達はファブリス達を歓迎するらしい歌を歌ってくれていた。

 歌ってくれる住人達は女性が十人、男性が五人の割合でソプラノが六人、アルトが四人、テノールが三人、バスが二人だった。

 指揮者はそのテノールの一人だった。

 その歌は無伴奏でただ歌うだけのものだったが美しい歌声がその周辺に響き渡り、その声自体が楽器のようで伴奏がなくとも聴いていられるほど輝かしく、華やかで優雅なものだった。

 そして、その歌を聞けば聞くほどファブリス達の今までの疲れをなくしてくれるようだった。

 でも、何を言っているのかは分からない。

 そもそもこの歌には歌詞がないようだ。

 それに気付いたファブリスはジェジェーヌ・クーレに訊いた。

「ねえ、ジェジェーヌ・クーレ、どうして、この歌には歌詞がないの?」

「それはこの歌が『詞なき歓迎の歌』だからですよ」

 とジェジェーヌ・クーレの代わりにその歌を歌っていないエール・スィエル・アスピラスィオンの一人の男が教えてくれた。

「私の名はティボー。ニュアージュの羊飼いです。そして、あそこにいる二人の少女が私の一番目の娘、アデライードと二番目の娘、エレアノールです」

 とソプラノ側にいる二人の少女を指し示した。

 その二人の少女は誰が見てもとても美しかった。

 二人の少女はファブリスより年上だったがイニャスより年下だとティボーが後に教えてくれた。

 たぶん、胸くらいまでの長さの柔らかい深い栗色の髪を持つ凛とはしているが優しい感じが溢れている十代後半くらいのイニャスよりは十センチくらい小さい方が姉のアデライードであろう。

 妹のエレアノールはふわっとした金髪で十代前半らしい可愛らしい顔が特徴的でファブリスよりは背が高かった。

 瞳の色は二人とも父、ティボーと同じ茶色で肌の色は白かった。

 そのアデライードを見た瞬間、イニャスは誰かを思い出そうとしていた。

(彼女は――)


 ジェジェーヌ・クーレは『詞なき歓迎の歌』を聞き終わった直後、その場でティボーに『百の聖なる月水夜』について訊いていた。

「わん! あなたは『百の聖なる月水夜』について何かご存知ですか?」

「『百の聖なる月水夜』ですか?」

 そう言ってティボーは少し思案顔になった。

 その顔の様子からは良い返事は期待出来そうにないとイニャスは思った。

 案の定、ティボーはその答えの代わりに片手を上げて雲で出来た翼が点々と建っているエール・スィエル・アスピラスィオンの中へと続いている一本の道を示した。

 その道の幅は中に行くほど徐々に広くなっていくようでやはり白い雲で出来ている。

「その話の前にどうぞこの国へお入りください。あの長いアスピラスィオンの梯子を上ってお疲れでしょう」

 そう言ってティボーはファブリス達をエール・スィエル・アスピラスィオンの中へと招き入れようとしてくれたがジェジェーヌ・クーレは一刻も早く『百の聖なる月水夜』を見つけたいらしく、その提案を断った。

「あん、あん! あの歌を聞いてその疲れもなくなりました! ですから、ここで結構」

 そんなジェジェーヌ・クーレの意見にイニャスは待ったを掛けた。

「いや、お前はそうかもしれんが俺はともかくファブリスは絶対ここで休んで行くべきだ」

 そのイニャスの意見にファブリスは大きく頷いた。

 イニャスの言う通りファブリスは『詞なき歓迎の歌』を聞いてもあまり元気にはなれなかった。

「ウー、ファブリスがそうならこの中に入るとするか」

 と言ってジェジェーヌ・クーレは少ししょんぼりとした様子だったがトコトコとファブリス達よりも先にティボーの案内に付いて行った。

 それを見たイニャスはまたか……という顔をして、

「ほんと、どうしようもない案内犬だな」

 と言ってファブリスの背中を押しながら周りに居た全てのエール・スィエル・アスピラスィオンの住人達とその国へと入って行ったのだった――。

 その国に辿り着くとジェジェーヌは一目散に『百の聖なる月水夜』を探すと言い残してその場から走ってどこかに行ってしまった。

「あの案内犬はこの国のことを知っているのか?」

 とイニャスは走ってどこかに行ってしまうジェジェーヌの後ろ姿を見てぼそっと言った。

「いいえ、知らないでしょうね」

 そのイニャスの言葉にアデライードは言葉を返した。

 イニャスはいつの間にか自分の隣にいたアデライードに驚いた。

「ど、どうしてそんなことが分かる?」

「だって、久しぶりだもの。お客さんが来るの! ね、お姉ちゃん!」

 とエレアノールはイニャスの先を歩くファブリスの隣で言った。

 何故かエレアノールはファブリスの腕を掴んでいた。

「そうね、私も生まれてから一度もお客さんに会ったことがないわ。ここ数百年くらい現世界のお客さんは来ていないって長老も言っていたわね。創世界のお客さんはあの大きな蝶くらいしか来たことがないわ」

 その話からするとジェジェーヌ・クーレもここを訪れたことはないようだ。

 そもそもあの梯子を上ることが不可能だろう。

 ティボーの二人の娘の案内でファブリス達はエール・スィエル・アスピラスィオンを見て回った。

 この国の半分はエール・スィエル・アスピラスィオンの住人達の居住区となっているようでその全ての建物はやはり雲で出来ていた。

 現世界の建物と同じように造られていたがその建物の扉はあまり使わないらしい。その扉はお客様用とエレアノールは説明した。その代わりにこの国の人達は半円型のベランダから出入りをするらしい。その方が便利だもの! とエレアノールはファブリスに言った。

 そして、その残りの半分は雲で出来た自然やニュアージュの羊を飼育する場所として使われているらしい。

「そういえばあのアスピラスィオンの梯子はどうやって作ったの?」

 ファブリスは歩きながら二人の少女に訊いた。

「さあ? 私が生まれた時からあの梯子はあるわ」

 エレアノールはそう言いながらまだファブリスの腕を掴んでいる。

「ここに、この空に私達の先祖が来るためにあの梯子を作ったとされているわ」

 アデライードはイニャスの隣を歩きながらファブリスに答えた。

「じゃあ、あのスリズィエは?」

 ファブリスはまた二人の少女に訊いた。

「スリズィエ?」

 エレアノールはあまり詳しくないようだ。それに対し、アデライードはそれなりに知っているようだった。

「フェ・プレズィール国に生えている唯一のスリズィエのことね?」

「そう!」

 ファブリスはアデライードを見るために後ろを向いた。

「あの木は千年も前のこの国の誰かが地を思って送ったの」

「地を思って?」

 それまで黙って聞いていたイニャスはアデライードにそう言った。

「そうよ、空に行けない者は空に憧れ、地に行けない者は地に憧れる。そういうものでしょ」

 そう言うアデライードはとても凛としていた。

「そういうものって。フェ・メレーヌ・プリュイの話では恋をしているような感じだった」

「そう。でも、憧れも恋と同じものよ」

「恋? そんなものを君は知っているのか?」

「ええ、私だってあなたと何も変わらない人間よ。この背中に翼がなければね」

「翼?」

 ファブリスがそう言うとアデライードは自身の背中に封じていた白い大きな見事な両翼をファブリスとイニャスの目の前で広げた。

 それを見たファブリスはすごく自然に言った。

「天使?」

「いいえ、違うわ。私は、私達は天使でもなければ女神でもない。それにここは天国じゃない。言ったでしょ、あなた達現世界の人間と同じ創世界の人間よ。ただ、現世界、創世界の他の人間と違うのはこの翼がなければ生きていけないってことだけ」

 そうアデライードが言うとエレアノールも自分の背中に封じていた白い両翼を広げて笑った。

 二人の現世界の人間が驚いているのを見たアデライードはそんな二人に翼の説明を簡単にした。

「この翼は別に魔法ではなく生まれつき備わっているものなの。エール・スィエル・アスピラスィオンに生まれた者なら誰でもね。誕生直後は背中の中に封じられているけれど歌を歌えるようになるとそれがきっかけで自身の覚醒となり同時に両翼も背中から自由に出し入れ出来るようになるの。そして、死ぬまでこの両翼は使えるわ。両翼の消滅が死とエール・スィエル・アスピラスィオンでは考えられているの。ちなみにあの道の途中に点々とあった雲で出来た翼はこの国で歌の上手かった人の翼をモチーフに作られているの。あとはそうね、この翼をよく使うのは飛ぶ時ね。移動する時以外ではあまり使わないわ。だから、いつもは翼がないの。あ、でも、高揚したりすると勝手に出てくる時もあるわ」

 そう言い終わるとアデライードは自分の翼を少しバサバサと軽く動かした。

 イニャスは何も見ていない、聞いていないという風でアデライードの翼の説明が始まる前からファブリスの両耳を手で強く押さえていた。

「ファブリス、聞こえてるか?」

「何で耳を押さえるの? イニャス、これじゃ何も聞けないよ」

 そう言うファブリスの不満を聞いてイニャスは満足そうに、

「そうか、それは良い」

 と頷いた。

 その様子を見ていたアデライードは宜しくないとエレアノールの顔を見て肩を竦めた。


 もう夜になるのにジェジェーヌ・クーレは片っ端から『百の聖なる月水夜』を探し続けていた。

 そして、その結果を一々、ティボーが用意してくれた部屋に来てはファブリス達に報告した。

「聞いてくれ、わん! イニャス、月には大変近くなったが肝心の『リュヌ・ラルム』の手掛かりが分からない。これでは、『百の聖なる月水夜』が見られない」

 そう言ってくるジェジェーヌ・クーレに対してイニャスは、

「それはデフロットが大変がっかりするだろうな」

 と毎回気力なく同じことを言ってやった。

 すると、ジェジェーヌ・クーレはまたトコトコ歩き去りながら、

「あん! よし、また、探して来るぞ!」

 と元気に言って闇へ消えて行く。

 そんなジェジェーヌ・クーレの後ろ姿を見ながらイニャスはもう眠りにつきそうなファブリスの横でぼそっと言った。

「全く、俺達に報告して来る暇があったらずっと探してろ」

 そう言ってイニャスは少し考え出した。

「彼女はリュリュに似ていた――」

 イニャスは眠りにつくことも出来ず、ニュアージュの羊飼いティボーの一番目の娘、アデライードを思い出していた。

 彼女は彼女に似ていた。

 だが、その彼女はもういない。

 そう、いないはずだ。

 ここは天国ではないし、彼女も女神とか天使ではない。

 ただ、この国に住んでいる人だ。

 雲から雲へ行く時、他に手段がない時だけ背中から翼を出すそうだがそれ以外の時は現世界に生きているイニャス達と同じ人間のようだ。

「彼女は彼女であって彼女ではない」

 そう言ってイニャスは頭を抱えた。


 そんな中、ジェジェーヌ・クーレはとぼとぼと帰って来た。

 そして、すやすや眠っているファブリスの耳元まで来てファブリスがこれなら起きるであろう大きさの声で言った。

「頼む! ファブリス・クレティアン、私と一緒に探してくれ。月とは近くなったのだが肝心の『リュヌ・ラルム』が見つからないのだ」

 そう言われてファブリスは何事かとびっくりして飛び起きた。

「え?」

 イニャスも今まで考え事をしていたせいかファブリスと同じようにはっと我に返ったが遅かった。

 いきなりの事に驚き、訳も分からないファブリスをジェジェーヌ・クーレはファブリスの服をぐいぐい引っ張って連れて行ってしまった後だった。

 その事をやっと理解したイニャスはあのどうしようもない犬を追い掛けようとした。

 その時、突然、静かにベランダから部屋に入って来たアデライードに強引に手を引っ張られてそれを阻止され、

「心配しないで。だから、良いから来て」

 と意味不明なことを言ってどこかにイニャスを連れて行こうとした。

 そんなアデライードをイニャスは変だと思い、この部屋から出る事を拒否した。

「は? 今は駄目だ。ファブリスが気になるし、ここでも良いだろ?」

「ダメよ!」

 そう言ってアデライードはイニャスの腕を強引に力強く掴んだままベランダまで行き、自分の翼を広げイニャスと共に空高く飛んだ。

「ウソだろー!」

 と飛ぶと同時に叫んだイニャスの口をアデライードは優しく手で押さえ、

「大丈夫」

 とイニャスの顔を見て優しくにっこり笑い掛けた。

 そして、そのアデライードの顔に安堵したイニャスの腕を放した。

「うおー!」

 そんな声を発しながらイニャスは落下していくのをどうにかして阻止しようとバタバタと手足を動かした。

 イニャスのその様子を悠々と飛びながら見ていたアデライードはピューと手を使って笛のような音を立てた。

 すると落下していくイニャスのちょうど真下に一匹のニュアージュの羊がどこかから走ってやって来て見事イニャスを雲のような柔らかい毛で受け止めた。

 この時、イニャスはどうしてあの時、自分で振り解けたはずのアデライードの手を全く解かなかったのか考えていなかった。

 それよりも生きていることにほっとした。

 そして、ニュアージュの羊の背中の上でアデライードを見上げた。

「生きていることにほっとした?」

 と上から言ってくるアデライードにイニャスは何故こんな事をするのかと訊いた。

「あら、怒ってないの? あなたがこの空から地に足を着かせるには私の行きたい場所まで付いて来るしかないの」

 そう言ってアデライードは先を急いでいるようだった。

 イニャスはそんなアデライードを見上げ、怒りよりもアデライードの意志に従う事にした。

 そうすればもうあんな危ない目に遭わないはずだからだ。

 そうして、アデライードはイニャスをニュアージュの泉に連れ出すことに成功したのだった。


 エール・スィエル・アスピラスィオンの住人である彼女、エムリーヌは毎晩、ニュアージュの泉のすぐ近くにある歩いた方が早く着くと言われる牧場にいるニュアージュの羊達に自分の歌を聞かせていた。

 ニュアージュの羊達は聞かされた歌によって機嫌が変わる。

 とても上手い歌ならばすやすやとその場で穏やかな寝息を聞かせてくれるし、歌が下手なら飛んで走ってどこかに行ってしまう。

 今のエムリーヌの歌は普通のようだった。

 ニュアージュの羊達に自分の歌を聞かせても聞かせる前と全く同じ動作をしている。

 これはエムリーヌにしてみれば面白くない事だ。

 初めてこのニュアージュの羊達に歌を聞かせた時も今と同じようにニュアージュの羊達がやりたいことをずっとやり続けていた。

 なのに、アデライードが初めて歌った時、ニュアージュの羊達はそれまでやっていた事を全て放棄し安らかな眠りに誘われた。

 アデライードは小さい時からニュアージュの羊達と慣れ親しんでいたからだとは言えないほどに彼女の歌は上手かった。

 たぶん、彼女はあの翼のモチーフに選ばれるのであろう。

 アデライードの母、バルバラもその一人だった。

 アデライードの歌は母親譲りでその母親も翼のモチーフに選ばれるんじゃないかと言われるほど歌が上手かった。

 それがずっと先の事であるとしても彼女達は特別な存在だった。

 だけど、彼女はそれを肯定もせず、否定もせず、ただ好きなように生きていた。

 それはエール・スィエル・アスピラスィオンの意志のようだった。

 その姿を見る度にエムリーヌはアデライードに憧れた。

 だから、自分の歌を上達させたかった。

 上達すればきっとアデライードのように生きていける気がした。

 だから、彼女は今日もいつもと変わらない歌をニュアージュの羊達に聞かせていた。

 今日もまたダメね――と思った時、少し遠くの方から男女の声が空高く聞こえてきた。

 その声に驚いてしまったエムリーヌは思わずニュアージュの泉全体が目の前に見えるニュアージュの木々の陰に隠れてしまった。


 アデライードはその泉に着くと翼を自身の背中の中へと消し、イニャスの乗って来たニュアージュの羊に、

「帰りもよろしくね」

 と言って仲間の元へと一時返した。

 そして、イニャスに、

「少し、ここで待ってて」

 と言い残してそのニュアージュの羊の後を追い掛けるようにどこかへと行ってしまった。

 その間、イニャスは周りを観察していた。

 連れて来られたニュアージュの泉やその周りに生えている木々もやはり白い雲で出来ているようだった。

 月の光によってその泉や木々は柔らかく月色に輝いていた。

 そんな光景を不思議そうに見回していたイニャスの所に戻って来たアデライードは色も分からない程汚れたポシェットを一つイニャスに手渡した。

「はい、これ」

「これは?」

 それを受け取ったイニャスがアデライードに訊いた。

「いつか来るかもしれない人間が来たら渡そうとずっと思っていたの。あれはいつの事だったか忘れてしまったけれどあの蝶がニュアージュの羊達の前に落として行ったの。それ、あなたのじゃなかったら返してちょうだいね。本当の持ち主に渡してあげたいから」

「どういう事だ?」

 アデライードの話はいつも訳が分からないとイニャスは思った。

 あまり真剣に人の話を聞いていないからだろうか。

「いけないことだとは思ったけれどポシェットの中身見てしまったの。そしたら、横笛の分解したのが入っていたんですもの。どうしてか? って気になるじゃない。私達はその横笛がなくても歌えるから必要ないし」

 アデライードの話を聞いてイニャスはすぐさまポシェットの中身を確認した。

 その横笛は初めてジェジェーヌ・クーレに会った時にどこかに置き忘れて来てしまったあの横笛だった。

「何故、これが俺のだと分かった?」

 とイニャスがアデライードに訊くと彼女は、

「まあ、そうなの!」

 と喜んでから、

「なんとなく」

 とだけ答え、微笑んだ。

 そして、

「そのポシェットの中にある横笛を組み立てて吹いてみてちょうだい」

 とイニャスに頼んだ。

「どうして?」

 イニャスは訊いた。

「吹けば本当にあなたのかどうか分かるじゃない? それにもし、その横笛が本当にあなたのだったらお礼の代わりになるでしょ?」

 とアデライードは答えた。

「お礼?」

「そうよ、拾ってくれた人には感謝しないとね」

 そう言ってアデライードは近くにあったニュアージュの石に腰を下ろした。

 とてもサバサバしている。

「誰かさんそっくりさのサバサバ感だ」

 イニャスのその言葉が聞こえたのかアデライードは言った。

「誰かさんって?」

「いや、仲間のことだ」

 とだけイニャスは答え、横笛を組み立てて口に構えた。

「曲は?」

 一応、イニャスはアデライードに訊いてみた。

 その答えは、

「あなたの気持ち」

 とだけ答え、アデライードはまた、微笑んだ。

「適当に吹けと?」

「それでも良いわ。もし、その曲が私の心に響いたら私も何も考えず、あなたの曲に私の歌を送りましょう」

「それじゃ、俺からのお礼にならないじゃないか」

「そうね、でも、そう簡単に歌わないから安心して」

 と言ってそれ以上アデライードは喋らなかった。

 そして、ただ、微笑み続けた。

 それを見てイニャスは仕方ないと思い、ようやく見つけた自分の横笛を久しぶりに吹き始めることにした。

 アデライードの言う思いのままに――は無理かもしれないが感謝の気持ちだけは伝わるように吹こうと決めた。


 イニャスの吹く横笛の音は辺りを優しさに包み込んだ。

 吹く本人としては久しぶり過ぎてあまり指が動かなかったり思うような音が出なかったりしたがそれでも徐々に滑らかなものへと変わっていった。

 リュリュが生きていた頃と同じような音へと。

「素敵ね。誰かとの素敵な思い出を思い出しているの?」

 と突然、アデライードは言った。

 その声にイニャスは吹くのを止めた。

「な、何を言ってるんだ!」

「だって、今のあなたの音は本当の優しい愛しさに溢れていたもの。それと物悲しさ」

 そう言ってアデライードは今まで自分が座っていた石の上に立ち、自身の白い両翼をバサッと瞬時に大きく現し広げた。

 少し、白い羽根がふわふわと落ちた。

 その翼は月の光に照らされてまるで星のように綺麗に輝いていた。

 アデライードの軽くふわふわとした服や胸くらいまでの長さの栗色の髪は夜の風でなびいた。

 そして、アデライードは何を思ったのかイニャスに上から目線で言った。

「良いわ、あなたの歌と私、歌ってあげる」

「は?」

 イニャスはあまりの唐突さに彼女が何を言っているのか分からず、それしか言えなかった。

「さあ、その横笛を口に当てなさい。イニャス・エマール」

「どうして、俺の名前!」

「その横笛に彫ってあったわ」

 そう言うとアデライードは息をすっと一瞬吐き出し、また大きく吸い込み、イニャスに合図した――。


 その歌はイニャスにとっては何とも悲しい歌と同時に救いの歌でもあった。

 やはり、この歌には言葉がなかった。

 そして、彼女を天使かと思った。

 でも、彼女は言う。

「私は天使でなければ女神でもないし、誰かの生まれ変わりでもない。ただ、伝えたい歌を思うがままに歌うだけ。飛ぶのはそうしないと生きていけないからよ」

 と。

「それがエール・スィエル・アスピラスィオンに住む人達の生き方」

 だと。

 あの歓迎の歌よりもアデライードが今、歌ってくれる歌がイニャスには一番心に沁み込んだ。

 それは彼女が今は亡きイニャスの恋人、リュリュの面影に溢れていたからなのかもしれないが。

 もし、彼女が今、生きていたならばと考えると言って欲しい言葉がたくさんあった。

 もっともっとずっと、言って欲しかった。愛したかった。

 その言葉を今、アデライードは歌ってくれる。

 彼女の『言う』ではなく、『歌う』のはとても気が楽で心にすっと入ってくる。

 アデライードの歌う姿は本当に彼女そのものだった。

 イニャスはリュリュがいなくなってから初めて横笛を吹きながら、二回目の涙を静かに流したのであった。

 アデライードはイニャスの吹く横笛が聞こえなくなってもまだ歌ってくれていた。

 それはもうイニャスだけのために。

「ほら、もう泣かないで。また、初めて会った時みたいに笑って――一度も笑ってなかったかしら?」

 アデライードは歌い終わるとイニャスに微笑みながらそう言った。

 その言葉にイニャスは少し笑った。

 アデライードはイニャスの身体をアデライードの身体と大きな白い美しい両翼で一回だけ優しく包み込むためにイニャスに近付いた。

 それを知らないイニャスは少し後ずさった。

「大丈夫、逃げないで。もう何も考えないで良いの。あなたは今のあなたで良いのよ」

 そう言ってアデライードは少し背伸びをしてイニャスの栗色の髪を一回優しく手で撫でてから、涙で濡れた顔を一回だけ愛しそうにその手でまた触れた。

 イニャスはその間にアデライードと一回だけ眼が合った。

 もし――はもう考えたくなかった。


 ニュアージュの木々の陰に隠れてしまったエムリーヌはずっとその場から離れないでイニャスとアデライードの様子を見続けていた。

 アデライードがこちら側に来た時は冷や冷やしたが彼女はエムリーヌに気付かなかったようだった。

 そして、イニャスの所に戻ったアデライードはイニャスに何かを渡していた。

 それが何なのかエムリーヌには分からなかったが二人が何か話した後、笛の音が聞こえてきた。

 その音はニュアージュの羊達をぐっすりと眠らせた。

 エムリーヌもその音にうっとりとなった。

 あの男が吹いているに違いない。

 エール・スィエル・アスピラスィオンの者なら歌うからだ。

 自身が楽器になる。

 だが、あの男は笛を使う。

 自分の音では出せない今まで聞いたこともないイニャスの音と楽曲にエムリーヌは惚れた。

 自分よりも上手いからだろうか。

 そんな中、いきなりその音が途切れた。

 その途端、ニュアージュの羊達は一斉に目を覚ました。

 また、二人は何か話している。

 そして、また吹き始めた。今度はアデライードの歌も一緒だった。

 その音楽を聞いてニュアージュの羊達は再び寝始めた。

 だが、エムリーヌはそれを聞いてうっとりとはできなかった。

 アデライードが翼を出した時からエムリーヌには分かっていた。

 それがただの歌ではないことを。

 彼女は『精神、機知の歌翼(かよく)』をイニャスに今、使用している。

 彼女の母親も使えるあの『精神、機知の歌翼』を。

「何で、あの男に!」

 エムリーヌにもアデライードの考えが分からなかったが、『精神、機知の歌翼』を使わなくてはならないほどあの男が重症だということだけは分かった。

 アデライードの使う『精神、機知の歌翼』はエール・スィエル・アスピラスィオンの選ばれた者しか使えない癒しの治療法の一つだった。

 その治療法はとても簡単でその治療を行う者の自らの声と身体、翼を使うものだった。

 しかし、治療を行う者によってその治療の仕方はかなり違ったが、その治療の効果は絶大なものだと思われていた。

 主にその治療を受けた者の心の深い闇の思い出――例えば、死から誰かを救えなかった等から解き放し、自由に歌えるようにすることが目的とされている。

 だが、その反面、副作用も大きかった。

 主な副作用としてその治療を受けた者は少しの間、何も考えたくなくなる、人格が変わる等が挙げられたがその苦しみよりは良いものとしてエール・スィエル・アスピラスィオンでは考えられていた。

 

 アデライードはイニャスにその治療が終わるとニュアージュの羊を一匹また連れて来た。

 その羊はやたらとイニャスに懐いていた。

 それを見てアデライードは、

「良かったわね。これなら私がいなくても大丈夫そうね」

 と笑いながら言ったがイニャスは、

「この羊は行きと同じ羊か?」

 とアデライードに恐々と訊いた。

「ええ、同じよ」

 そのイニャスの言動にアデライードは『精神、機知の歌翼』の副作用がイニャスに起こっていると感じた。

 まあ、その程度なら心配ないとアデライードはイニャスにニュアージュの羊に乗るように言ってちゃんと乗ったのを確認するとニュアージュの羊のお尻を軽く叩き、ニュアージュの羊を飛ばせた。

「アデライード!」

 イニャスはその途端、飛んだ! と思い、すぐにニュアージュの羊の背中の上で下にいるアデライードの名を叫んだ。

 それを聞いてアデライードは大声でイニャスに向けて言った。

「大丈夫よ、イニャス! 私もすぐ後から行くから少しはそのニュアージュの羊と空で仲良くして!」

 かなり副作用が強く出ているらしく、イニャスの勇敢さがその副作用によって失われているようだ。

 まあ、その副作用も今日の朝には無くなるだろう。

 それと同時に『精神、機知の歌翼』の効果も薄れていくのだろうが。

 アデライードがいなくては心配なようでそのニュアージュの羊もその辺を飛び回っているだけのようだった。

 仕方がないとアデライードが飛ぼうとしたその時、アデライードはその様子をずっと見ていたエムリーヌに呼び止められた。

「アデライード! どうしてあの男に『精神、機知の歌翼』を使ったの?」

 とニュアージュの木々から走ってこちら側にやって来たエムリーヌに訊かれたアデライードは、

「あら、ストロベリーブロンドのエムリーヌ。それはほっとけなかったからよ。あの音を聞いてあなたは何も感じなかったの? あんなに良い音を奏でられるのに愛しい人の『死』を知ってしまったあの人はもうそれ以上の最高の音が出せなくなるかもしれない。その可能性を無くすにはたとえ一時的な効果だとしてもこうするしかなかったのよ」

 とだけ答え、エムリーヌをその場に残してアデライードはイニャスの後を追って空に飛んだのだった。


 昼になってやっとジェジェーヌ・クーレとファブリスはニヤニヤしながら汚らしいポシェットを肩に掛け、エール・スィエル・アスピラスィオンの街外れで待っていたイニャスとアデライード達の所に帰って来た。

「いやー、イニャス! 良い知らせを聞いたぞ!」

「何だ?」

 ジェジェーヌ・クーレのその陽気なお知らせにイニャスは嫌気が差した。

「なんと! 『百の聖なる月水夜』はここでは行われないんだ、わん!」

「悪い知らせじゃないか」

「そう言うな、イニャス。あのご婦人からこれを聞くのに可愛い坊やが必要だったんだ」

「たくさんあの人からお菓子をもらったんだ。けっこう、おいしかったよ。それから、今度は下りるみたいだよ」

 ファブリスは今からそれを思うと疲れているようだった。

「そうか」

 それだけ言うとイニャスはアデライードの方を向き、

「そういう訳で俺達は下りるらしい」

 と言い、

「昨日はありがとう」

 と心から言った。

「私はただ、あなたにあなたの物を返して歌っただけじゃない」

 とアデライードはやっぱり微笑んだ。

「それだけ言っときたかった」

 イニャスにしては真面目過ぎていてジェジェーヌ・クーレは何だか何かを嗅ぎ付けそうな気がしたがそれも途中で終わってしまった。

 ジェジェーヌ・クーレはいきなり牧場から脱走した一匹のニュアージュの羊にその場から吹き飛ばされてしまった。

「キャッウーン!」

 と言いながら今まで立っていたその場所からぽんっとエール・スィエル・アスピラスィオンの下へとジェジェーヌ・クーレは落ちて行った。

 それを目の当たりにしたイニャスはファブリスをすぐさま抱き、ジェジェーヌ・クーレの後を追い、雲から下――空から地へと飛んだ。

 それを見たアデライード達は助けに向かったがティボーが途中でそれを止めた。

「ここから先、我々は行くことが許されていない。そんな顔をするな、アデライード。お前も知ってるだろ? この下は穏やかな海だ。そして、近い内にまた、会える。今度はこの下で」

 そう言われて二人と一匹をその場にいる全員で見続けた。

「さよなら、イニャス」

 とあのエムリーヌは言ったがアデライードは、

「元気ね」

 と言って落ちて行くファブリス、イニャス、ジェジェーヌ・クーレを見ながら微笑んだ。

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